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[[219年]]従父の[[夏侯淵]]が戦死すると、その後任として[[長安]]付近に駐屯した。翌[[220年]]、[[曹丕]](文帝)が[[禅譲]]により即位すると、安西将軍・持節に任じられ、[[関中]]の軍勢の指揮を執ることを任された。
 
夏侯楙は生まれつき武略に欠けており、金儲けが好きであった。[[228年]]、[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]が[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]を行なった際、[[魏延]]は夏侯楙が臆病であるとの評判を聞いたため、諸葛亮に長安を急襲することを提案したが却下された(「魏延伝」注より)。[[曹叡]](明帝)が蜀に備えるため西方に遠征すると、夏侯楙の性格について言上する者がいたため、曹叡は夏侯楙を[[洛陽]]に呼び戻し尚書とした。
 
夏侯楙は関中にいた頃、多くの娼妓を囲っていたため、妻と仲が悪くなった。後に夏侯楙は、弟の夏侯子臧・夏侯子江らの礼に外れた振る舞いを何度も叱責した。しかし、処分を恐れた弟たちが夏侯楙の罪を偽装して、彼の妻に罪状を上奏させたので、夏侯楙は逮捕されてしまった。曹叡が彼を処刑しようとすると、[[段黙]]が「これは清河長公主と夏侯楙の仲が悪かったことから生まれた誣告でしょう。また伏波将軍(夏侯惇)は先帝(曹丕)と天下を平定するのに功績があったお方ですから、特に恩を与えるべきです」と弁護したため、何とか曹叡の気持ちが収まり、処刑を免れた。