「桜花 (航空機)」の版間の差分

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[[1944年]]([[昭和]]19年)8月下旬、航空本部の[[伊東裕満]]中佐が「桜花」と命名した<ref name="jinrai_70"/>{{#tag:ref|書面上から海軍特攻部長[[大森仙太郎]]中将が命名者とされる場合もある(8月31日、書類上正式認定は1945年3月17日内兵令8号)<ref>御田重宝『特攻』講談社400頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 p334</ref>。記者[[渡邉恒雄]]が[[源田実]]を命名者と広言したことがあるが根拠はない<ref>『昭和の戦争 保阪正康対論集』朝日新聞社236頁</ref>。|group="注釈"}}。1944年9月5日作戦研究で軍令部作戦課は、桜花の現状について「順調に進捗せば十二月頃約100組程度作戦可能となるべし、但し未だ実験中に属し予備兵力として期待するは危険なり」と考えていた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 396頁</ref>。
 
=== 第七二一海軍航空神雷部隊 ===
{{main|神雷部隊}}
1944年10月1日[[第七二一海軍航空隊]](神雷部隊)を編成、司令は航空特攻開始の進言をしていた岡村が任命された。この時点では特攻部隊ではなく、編成は普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦704頁</ref>。軍令部では[[土肥一夫]]が編成を担当して軍令部第一部長[[中澤佑]]少将から了承を取った<ref>NHK スペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部参謀の語った敗戦』p152 - 154</ref>。岡村は桜花を搭載する[[一式陸上攻撃機]]隊の指揮官として、危険度が高い任務を遂行できるだけの多くの修羅場をくぐった人材が必要と考え海軍省人事局に相談したところ、航空雷撃のスペシャリストで、[[任侠]]のような立ち振る舞いを好み、部下統率力に優れて自分の陸攻隊を「野中一家」と呼ばせるほどにまとめ上げていた[[野中五郎]]少佐に白羽の矢が立った<ref>内藤初穂『桜花―極限の特攻機』中公文庫 p.52</ref>。
 
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1945年3月17日、[[米内光政]]海軍大臣の内令兵第八号をもって、桜花11型は正式に兵器として採用された<ref>戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後186頁</ref><ref>[[#内令(軍極秘)昭和20年3月]]p.39『内令兵第八號(軍極秘) 試作櫻花ヲ兵器ニ採用シ櫻花(オウクワ)一一型ト呼稱ス 昭和二十年三月十七日 海軍大臣』</ref>。
 
{{main|九州沖航空戦}}
桜花の初陣は、1945年3月[[九州沖航空戦]]であった。3月21日までに、通常攻撃と特攻により、[[第58任務部隊]]にかなりの損害を与えていると判断していた第5航空艦隊は{{#tag:ref|実際に空母フランクリンとワスプを大破させ、イントレピッドやエンタープライズやエセックスにも損傷を与えていた。|group="注釈"}}、偵察機が発見した機動部隊に直掩機が見られなかった事より、損傷艦と誤認しトドメをさす好機到来と判断し、桜花部隊の出動を決めた。