削除された内容 追加された内容
突撃隊 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
突撃隊 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
335行目:
日本が敗戦した[[1945年]]8月以降は、イギリスやアメリカ、フランス、ソ連と並んで中華民国が第二次世界大戦の戦勝国、及び[[国際連合]]の[[常任理事国]]となり、蒋介石も連合国の1国の指導者として扱われることとなる。
 
日本敗戦とともにアメリカは、抗日戦末期に弱体化が著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこし、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍にかわってアメリカ軍みずから華北の炭坑、鉄道などを接収した。一方、国共合作交渉は、8月28日に蒋介石と毛沢東が重慶で直接会談し、10月10日[[双十協定]]で一時的な合意を見た。この間、先述のようなアメリカによる国民党軍の武装・訓練・華北への輸送作戦は12月までにかなりの進展を見せ、アメリカは蒋介石政権崩壊・共産主義拡大防止対策を行い、トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。12月15日[[ハリー・トルーマン]]は対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。この声明は、(1)中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立、(2)中共軍の国民党軍への編入、(3)安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求し、さらに(4)以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用することを宣明した。深まりゆく内戦の危機に、アメリカは大統領特使[[ジョージ・マーシャル]]元帥を送って 国共の調停にのりだした。在華アメリカ軍兵力は11万を超えるピークに達していた。こうしてアメリカは国民党軍に莫大な支援を集中して共産党側を圧倒しつつ、他方でアメリカのさらなる国家資本援助を報償として提示して国民党の譲歩をせまることによって国共両党を統一交渉テーブルにつかせようとしたのである<ref name="經濟學研究"></ref>。共産軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは、腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蒋介石に大量の軍事援助を与えつつ、国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのである。
 
[[File:Chiang_at_1946.jpg|thumb|政治協商会議での蒋介石]]
1946年1月10日、双十協定に基づき、政治協商会議(後の[[中国人民政治協商会議]]と区別して旧政協と呼ばれる)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。同時にアメリカ代表のマーシャル、国民党代表の[[張群]]、共産党代表の周恩来による{{仮リンク|軍事調処執行部|zh|军事调处执行部}}(三人委員会)が成立して「国共停戦協定」も調印されたものの、蒋介石の「武力剿共」の決意は変わらなかった<ref>「中国近現代史」小島晋治・丸山松幸。</ref>。2月25日の基本法案によると、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国政府主席(蒋介石)であることを再確認した上で、一年以内にその陸上兵力を国民党軍90個師団、共産党軍18個師団に削減し、さらにその半年後にはそれぞれ50個師団と10個師団にまで縮小することが取り決めされていた。3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月に再び中国共産党との間で[[国共内戦]]が勃発した。
 
トルーマンは前大統領のルーズベルトとうって変わって蒋介石及び中国国民党への援助に消極的となる。なおこの背景にはアメリカ政府内に入り込んだソ連や中国共産党側のスパイの活動があったと言われている。これと反対にソ連は中国共産党への支援を活発化させていったため、次第に劣勢に追い込まれていくことになる。中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蒋介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出<ref name="經濟學研究">{{Cite journal|和書|author=西川博史 |title=アメリカの対日政策の転換と中国の動向 (長岡新吉教授 退官記念号 I) |date=1994 |publisher=北海道大学 |journal=經濟學研究 |volume=43 |number=4 |naid=110004464653 |pages=73-92 |ref=harv}}</ref>。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった<ref name="經濟學研究" /><ref> フリーダ・アトリー(西川博史・石堂哲也訳「アトリーのチャイナ・ストーリ」日本経済評論社。</ref>。8月10日にはトルーマンが蒋介石にその行動を非難するメッセージを送り、国内問題の早急な平和的解決への努力を要請し、8月31日に再度、国共間の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したが、それもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられた<ref name="經濟學研究"></ref>。<!--「[[赤狩り]]」を主導した共和党の[[ジョセフ・マッカーシー]]および1995年に公開された米国務省[[ベノナ|ベノナ文書]] (この部分はマッカーシーの著書以外の信頼できる出典が必要です。)は、マーシャルが周恩来に魅了され、「中国人が根っからの共産主義者ではない」と考え、また周恩来が「もし米国が中国に民主主義を導入する手助けをしてくれればロシアとの連携を断ち切る」と約束していたと主張している<ref name="マッカーシー">{{Cite book|和書|author=McCarthy,JosephR. |author2=本原俊裕 |author3=副島隆彦 |title=共産中国はアメリカがつくった : G・マーシャルの背信外交 |date=2005 |publisher=成甲書房 |isbn=4880861928 |series=発掘!アメリカの嘘 |ref=harv}}</ref>{{信頼性要検証|date=2014-10}}。また、マッカーシーは、1946年7月の周恩来とマーシャルの会談では周恩来の要請をうけて、[[アルバート・C. ウェデマイヤー]]の中国大使任命をマーシャルが妨害したとし、アメリカ政府の人事にも中国共産党の意向が反映されたとも主張している<ref name="マッカーシー"></ref>{{信頼性要検証|date=2014-10}}。同年8月には、国民党への武器援助が禁止された<ref name="マッカーシー"></ref>{{信頼性要検証|date=2014-10}}。-->マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蒋介石にあるとして非難している<ref>"General Marshall to President Truman", May 6,1946, Foreign Relations 01 the United States,1946 Vol IX, pp.815-18.</ref><ref name="經濟學研究" />。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している<ref>H. Sトルーマン/加瀬俊一監修,堀江芳孝訳「トルーマン回顧録~II,恒文社,1992年,p64-77</ref>。1946年12月18日、トルーマン大統領は「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する<ref name="經濟學研究"></ref>。つまり、[[マーシャル・プラン]]のような中国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。