「エンヴェル・ホッジャ」の版間の差分

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[[1971年]]には[[国際連合]]で[[アルバニア決議]]を共同提案して国際社会で中国が確固たる立場を築くのに一役を買った。しかし、中国は[[フランコ体制下のスペイン]]や[[3つの世界論]]に基づいて[[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]など[[反共主義]]的な国々とも国交を持ったことをホッジャは批判し<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China (PDF). 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.</ref>、[[1978年]]に[[鄧小平]]時代の中国になると中国からの援助は途絶えた({{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}})。
 
[[1975年]]に[[米ソデタント]]の波から[[東欧諸国]]と[[西欧諸国]]が参加した[[全欧安全保障協力会議]]と[[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]も拒否して欧州の安全保障の枠組みからも外れたアルバニアは隣国の[[ギリシャ]]やユーゴスラビアと領土問題を抱えて孤立を深め、[[鎖国]]政策を断行することとなった<ref>Crampton, R. J. (1997). Eastern Europe in the Twentieth Century and After. Routledge – Taylor & Francis Group. pp. 356–357. ISBN 0-415-16423-0.</ref><ref>Galaty, Michael L.; Stocker, Sharon R.; Watkinson, Charles (2009). "The Snake That Bites: The Albanian Experience of Collective Trauma as Reflected in an Evolving Landscape". In Brown Golden, Kristen; Bergo, Bettina (eds.). The Trauma Controversy: Philosophical and Interdisciplinary Dialogues. SUNY Press. p. 176. ISBN 978-1-4384-2819-2.</ref>。
 
[[1978年]]に「アルバニアはマルクス・レーニン主義のみを順守する」と宣言し、独自の[[ホッジャ主義]]を提唱した。また、西欧諸国の共産党が[[ユーロコミュニズム]]に転向すると、「ユーロコミュニズムは反共主義である」という論文を発表し、以後は{{仮リンク|ニュージーランド共産党|en|Communist Party of New Zealand}}や[[日本共産党(左派)]]([[長周新聞]]、[[劇団はぐるま座]])を始めとする「アルバニア派」と呼ばれる各国の政党と関係を持ち、後にアルバニア派政党の国際組織も結成されている。