「平和のための原子力」の版間の差分

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== 概要 ==
[[第二次世界大戦]]末期の1945年、[[アメリカ軍]]が[[広島市|広島]]、[[長崎市|長崎]]に[[原子爆弾]]を投下して約10万6000人の死者と約11万人の負傷者を出した。その後も1948年、アメリカが[[太平洋]]で[[核実験]]を行い、1949年、[[ソビエト連邦|ソ連]]が核開発能力を備えるに至った。それを受けて、アメリカはより強力な[[水素爆弾]]の開発を進め、1952年11月に爆発実験を成功させた。1953年1月に大統領に就任したアイゼンハワーは、こうした東西[[冷戦]]の中での核開発競争が急速に進むことで[[核戦争]]の危険性が現実化しつつあるとの危機感を抱き、国連総会において、こうした危険性を訴えようとした<ref>{{Cite web |url= http://www.eisenhower.archives.gov/atom1.htm |title= Introduction by Jack M. Holl and Roger M. Anders |publisher= Eisenhower Archives |accessdate= 2011-03-22 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20070509221500/http://www.eisenhower.archives.gov/atom1.htm |archivedate= 2007年5月9日 }}</ref>。
 
アイゼンハワーは演説の中で、まず核開発競争が激化している現状を憂慮した上、アメリカに対し核攻撃がなされた場合には速やかに報復が行われることになるが、そのような事態になることを望むものではないとして、次のように述べた。