「喜連川藩」の版間の差分

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一方、古河公方は晴氏の息子[[足利義氏 (古河公方)|義氏]]が継いだが、次第に[[後北条氏|北条氏]]の圧迫を受けてその地位は名目的なものだけになった。[[1582年]](天正10年)に義氏が死去したが、男子の跡継ぎがいなかった。そのため家臣は義氏の娘で[[北条氏康]]の外孫でもある[[足利氏姫]]を擁立し、[[古河城]]を守っていた。
 
[[小田原征伐]]後、名族である足利氏の断絶を惜しんだ[[豊臣秀吉]]は、足利氏姫を小弓公方家頼純の子である国朝に娶わせ(国朝の姉[[月桂院|嶋子]]は秀吉の側室となっており、嶋子の取り成しもあったといわれている)、[[1590年]](天正18年)に下野喜連川に400[[貫]](3500[[石 (単位)|石]])の所領を与えた。[[1593年]](文禄2年)に国朝が没すると、国朝の弟[[喜連川頼氏|頼氏]]と足利氏姫が縁組した。しかし足利氏姫は喜連川に足を踏み入れることはなく、生涯を[[古河公方館]]で過ごした。
 
== 藩史 ==
頼氏は[[関ヶ原の戦い]]([[1600年]])に出陣しなかったが、戦後に[[徳川家康]]に戦勝を祝う使者を派遣したことから、[[1602年]](慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総[[石高]]4500石程度に過ぎず、本来ならば[[大名]]ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし[[江戸幕府]]を開き[[源氏長者]]となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である[[御所号]]を許して厚遇した。また[[四品以上に昇進する大名家一覧|四品]]格となり、代々の鎌倉公方が叙任された[[左兵衛督]]や[[左馬頭]]を称したが、これは幕府からの受けた[[武家官位]]ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。
 
以後の将軍も代々喜連川家を重んじ、[[享保]]年間には[[大名|諸侯]]扱いとなり、藩庁が[[喜連川陣屋]]のままにもかかわらず10万石相当の[[国主]]並家格となった。しかし石高が大幅に加増されることはなく、喜連川家は江戸期を通じて表高・実高が1万石に満たなかった唯一の諸侯とされている。[[1815年]](文化12年)に先代藩主であった[[喜連川恵氏]]が家臣に充てた書状の中で、喜連川家(喜連川藩)に認められた特例として「国勝手」([[参勤交代]]義務の免除および妻子の在国許可)「諸役御免」(幕府からの諸役賦課の免除)「無高にて五千石」(表高は無高(ゼロ)で、実高は5千石)を挙げている。ただし、参勤交代については毎年12月に自主的に参府していた<ref>『喜連川公方実記』</ref>。また、諸役の負担は表高から計算されるため、表高が無高な喜連川藩は当然、軍役など諸役負担の義務を有さなかった。ちなみに [[喜連川氏春]]の頃までは[[伺候席]]が[[前田家]]や[[越前松平家]]などと同じ[[大廊下]]であった(後に柳之間となる)。こうした高い格式を持つ一方で、式日の正装は通常の四品の大名の[[直垂]]ではなく、喜連川氏だけ六位以下の平士が着用する[[素襖]]であった。また、喜連川藩が1万石を満たしていないことから、喜連川家は諸侯(大名)の概念に当てはまらないとして[[高家 (江戸時代)|高家]]や[[交代寄合]]とみなす説もあるが、高家のような具体的職掌や朝廷との交渉上必要とした武家官位を持たず、交代寄合のような参勤交代や軍役負担義務も有しないなど、高家や交代寄合の概念からも外れている。
 
このように、喜連川家が江戸幕府から受けてきた待遇は「大名(諸侯)」「旗本」「交代寄合」のいずれにも当てはまらず、その実態は[[幕藩体制]]における武家の身分統制から外れており、徳川将軍家との明確な主従関係すら存在しなかった(喜連川家は自身を「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と称していた)。こうした特殊な存在が許されたのは、喜連川家の祖である古河公方が徳川家の関東移封の少し前まで実際に関東地方の支配者としての一定の権威を有していた存在であり、徳川家による関東地方支配および幕藩体制における日本全国支配が確立していない時期には喜連川家に対する一定の配慮がなされたとみられる。『[[徳川実紀]]』の「東照宮御実紀附録」(巻17)には慶長20年(1615年)閏6月の記事として、上洛中の家康に拝謁した頼氏が退出時に家康から御送礼を受けたことが記載されている。この記事には喜連川家が室町将軍家の支族で鎌倉幕府(鎌倉府の誤記か?)の末裔であるため、その筋目を重んじたこと、台徳院([[徳川秀忠]])以後は御送礼の儀は停止されたことが記されており、徳川家の支配の安定化とともに喜連川家の重要性が低下していったことを物語っているが、その特殊な立場は明治まで継続していったとみられている<ref>阿部能久「喜連川家の誕生」(『戦国期関東公方の研究』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1285-9)</ref>。
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[[1789年]](寛政元年)には500石の加増を受けたものの、10万石の格式を保つ出費は莫大であり、藩財政は厳しかった。荒川・内川の氾濫と[[天保の大飢饉]]は藩財政をますます窮乏させた。9代藩主[[喜連川煕氏]]は[[1839年]](天保10年)から藩政改革に乗り出し、義援米のための倉の設置、厳格な検地の実行、新田開発、藩内の士風刷新などの政策を実行しようとした。しかし家中での上士と下士の対立と、財政基盤の弱さが政策の実行を阻害し、ほとんど成果が上がらなかった<ref name="藩史大事典p155">藤野保・木村礎・村上直 編『藩史大事典 第2巻 関東編』(雄山閣、1988年) ISBN 4-639-10036-1 p155</ref>。唯一の救いは、喜連川が[[奥州街道]]沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても[[仙台藩]]の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った。仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味を言ったと伝えられる。
 
江戸時代を通じて喜連川の支配は続いた。[[明治維新]]後の[[1870年]](明治3年)、[[廃藩置県]]に先立って喜連川藩は封地を新政府に奉還して[[日光県]]に組み込まれ、喜連川藩は消滅した。翌[[1871年]](明治4年)には日光県の合併に伴い、[[宇都宮県]]の一部となった<ref name="藩史大事典p155"/>。喜連川は足利姓に復し、[[華族]]に列して[[子爵]]に叙せられた。
 
== 教育 ==
8代藩主[[喜連川煕氏|煕氏]]は[[1845年]](弘化2年)、喜連川町宇倉ヶ崎に藩校「翰林館」(かんりんかん)、通称「広連閣」(こうれんかく)を設立領内改革の一環として藩士子弟を教育させた。藩校においては和漢書の読書、詩文、書跡、武芸が奨励された。煕氏の領内改革自体は挫折するものの、藩校は明治維新を迎えても私塾として[[1883年]](明治16年)まで存続した<ref>『栃木県史』通史編5 近世2</ref>。
 
== 歴代藩主 ==
=== ;喜連川(足利)家 ===
[[外様大名|外様]]、3500石→4500石→5000石
*藩祖・[[足利国朝]](喜連川国朝)
 
藩祖・[[足利国朝]](喜連川国朝)
 
#[[喜連川頼氏]]
#[[喜連川尊信]]
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