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{{出典の明記|date=2014年1月5日 (日) 13:52 (UTC)}}
 
'''御府'''(ぎょふ)とは、[[皇居]]の[[吹上御苑]]([[東京都]][[千代田区]][[千代田]])の南端にある木造倉庫群総称した呼び名である。
 
==概要==
「朕([[明治天皇]])が子々孫々に至るまで、永く保存して忠勇なる陸海軍の功績を不朽に伝ふ」<ref>「振天府」勅額の裏の[[明治天皇]]の言葉を刻んだ文言より</ref>ため、[[日清戦争]]後の[[1896年]](明治29年)、明治天皇が最初に建てられさせた施設である。以後、[[大日本帝国]]が参戦した戦争ごとに新たな施設が建てられ、戦利品や記念品、また戦没者の名簿が納められていた。
 
[[第二次世界大戦]]後は廃止され、収蔵された戦利品は関係各国に返還された。建物の一部は破却・移築されたものの現在、以後も倉庫として利用されており、天皇の所有物や宮中儀式の用具が保管されている。倉庫群は吹上御苑内にあるため一般には公開されていないが、一部移築された建築物は役割を変えた上で一般に公開されている<ref>懐遠府本館(現・は[[皇居東御苑]]の「諏訪の茶屋)及び」に、建安府模型置場(現・は[[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]の民俗資料館))は役割を変えた上で一般に公開として、それぞれ再利用されている。</ref>
 
==施設==
戦争ごとに、振天府(しんてんふ)、懐遠府(かいえんふ)、建安府(けんあんふ)、惇明府(じゅんめいふ)、顕忠府(けんちゅうふ)の5つの施設が建造された。
戦争毎に五つの施設に分かれていた。
 
=== 振天府 ([[日清戦争]]) ===
[[File:Shintenfu.JPG|thumb|200px|振天府]]
[[1896年]](明治29年)、[[日清戦争]]が終わった後、明治天皇の発案により、忠勇な日本陸海将士の勲功を保存するため、開戦後奉献された戦利品をおさめ、戦死諸勇士の肖像をあつめ、その姓名を留めて陳列し、これを振天府と命名した<ref>「振天」とは、名声・武名を天下にあげることを意味する。</ref>。
日清戦争、征台の役がおわったのち、明治天皇が忠勇な日本陸海将士の勲功を保存しようという聖旨により開戦後奉献された戦利品をおさめ、戦死諸勇士の肖像をあつめ、その姓名を勒して陳列し、これを振天府と命名した。中央に東西82尺、南北20余尺の本館と、その西、廊をへだててわずか2間余の御休所からなる。本館正面楣上には、[[小松宮彰仁親王]]が勅を奉じて書いた府の題額がかかげられ、館内南側には海軍戦利品を、北側には陸軍戦利品をそれぞれ戦闘の順番によって陳列され、御休所の床には広島大本営の図がかけられ、柱の時計にも1吊(つり)の花生もともに広島駐輦中玉輦の側ちかくに使用したもの、なかでもその花瓶は一名「四兵の御花生」といい、歩、騎、砲、工4兵科の武器の一片ずつをあわせて、天皇がしたしく考案して従軍将士の労苦を日夕あわれんだ記念の品であった。なお、御休所の北に、参考室があり、ここに[[有栖川宮熾仁親王]]、[[北白川宮能久親王]]以下、陣没陸海両軍将校の写真をかかげ、室内3段の棚には戦病死将卒1万626人の姓名を録した十数巻の巻物が安置されていた。またべつに鹵簿の大砲をおさめた砲舎があり、庭上には清国兵が[[威海市|威海衛]]の海軍公署にたてた帆檣、敵艦定遠号の水雷防御鉄網、[[金州区|金州城]]永安門の門扉等が配置されていた。府の設計意匠はもちろん、凡百の列品の陳列にいたるまで、ことごとく天皇の案に出て、将士の写真を額面にはさむまでてづからおこなったとつたえる。また、有光亭(ゆうこうてい)という、日清戦争[[威海衛の戦い|威海衛戦]]の鹵簿品をもって構築された建造物が振天府参考室の西にあった。四阿つくりで、きわめて淡雅で、その梁柱は清国兵が港口に沈置した防材をもちい、周壁は敵の砲台にあった砲門上の石額で築かれ、楣上にかかげられた額は[[有栖川宮威仁親王]]が勅命を奉じて揮毫したもので、背面に文事秘書官[[股野琢]]撰有光の亭記がしたためられていた。
 
中央に、東西82尺(約31m)、南北20余尺(約7.6m)の本館が置かれ、その西に廊を隔ててわずか2間余の御休所が置かれた。本館正面楣上には、[[小松宮彰仁親王]]が天皇の命により書いた府の題額がかかげられた。本館内南側には海軍戦利品を、北側には陸軍戦利品をそれぞれ戦闘の順番によって陳列した。御休所の床には、広島大本営の図が掛けられ、柱の時計と花瓶は、広島大本営滞在中、天皇の玉座の側近くに置かれた物であった。中でもその花瓶は、一名「四兵の御花生」(しへいのおはないけ)と言い、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の4つの兵科を象徴する武器の一片ずつを組み合わせて構成した物で、天皇が自ら考案し、従軍将士の労苦を日夕あわれんだ記念の品であった。
=== 懐遠府([[義和団の乱]]) ===
 
なお、御休所の北に、参考室があり、ここに[[有栖川宮熾仁親王]]、[[北白川宮能久親王]]以下、陣没陸海両軍将校の写真をかかげ、室内3段の棚には戦病死将卒1万626人の姓名を録した十数巻の巻物が安置されていた。
 
また、別に鹵獲(ろかく、戦利品)の大砲をおさめた砲舎があり、庭上には清国兵が[[威海市|威海衛]]の海軍公署にたてた帆檣、敵艦定遠号の水雷防御鉄網、[[金州区|金州城]]永安門の門扉等が配置されていた。府の設計意匠はもちろん、凡百の列品の陳列にいたるまで、ことごとく天皇の案に出て、将士の写真を額面にはさむまでてづからおこなったと伝えられる。
 
他にも、有光亭(ゆうこうてい)という、日清戦争[[威海衛の戦い|威海衛戦]]の鹵獲品をもって構築された建造物が振天府参考室の西にあった。あずまや造りの極めて淡雅な建築で、その梁柱は清国兵が港口に沈置した防材を用い、周壁は敵の砲台にあった砲門上の石額で築かれ、楣上にかかげられた額は[[有栖川宮威仁親王]]が天皇の命により揮毫したもので、背面に文事秘書官・[[股野琢]]による撰有光の亭記がしたためられていた。
 
=== 懐遠府([[義和団の乱]]) ===
[[File:Imperial Palace Tokyo Suwanoochaya (teahouse).jpg|thumb|200px|諏訪の茶屋(旧懐遠府)]]
懐遠府は、吹上御苑内・霜錦亭の北にあった。[[1901年]](明治天皇が、190134)、[[義和団の乱平定ののち]]が収束した後、日本将士の勲労をつたえようという叡旨明治天皇の発案によって造営された。施設内には戦利品をおさめ、陣没将卒の肖像と名簿を保管するために造営された。1968年(昭和43年)、建物は[[皇居東御苑]]に移設され、[[諏訪の茶屋]]として一般公開されている。
 
=== 建安府([[日露戦争]]) ===
[[File:Kenanfu.JPG|thumb|200px|建安府]]
[[1910年]](明治43年)、[[日露戦争]]ののち、忠勇な日本将士の英烈をつたえるため、明治天皇の発案により造営された。天皇は[[閑院宮載仁親王]]に命じて題額を揮毫させた。
日露戦争ののち、明治天皇が忠勇な日本将士の英烈をつたえようという聖旨にもとづき考案して造営し、勅を[[閑院宮載仁親王]]にくだして、題額を揮毫させた。中央本館は東西65尺、南北26尺、南面してたてられ、海陸両軍の戦利品をおさめた。前庭西側に曲廊を架して、これに連続する2階建ての右翼陳列所には戦病将卒の写真、姓名録、ならびに日本軍が使用した小型武器、被服等がおさめられ、のちに当時出征した後備歩兵聯隊にさずけられた軍旗50余が追加陳列された。このほかに、御休所一宇、模型置場一宇、日本軍使用の大型武器を陳列した一宇、戦利に属する大型武器を陸海両軍にわかって格納されていた二宇の舎屋があった。模型置場は[[1973年]]11月に、[[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]に払い下げられ、同町大字寺子丙3-13に移築・復元の上、[[1974年]][[11月1日]]から那須町民俗資料館として使用・公開されている<ref name="nasu">『[http://www.town.nasu.lg.jp/hp/page000001600/hpg000001514.htm 那須町民俗資料館 - 那須町公式ホームページ]』那須町ホームページ</ref>。左翼側には唐碑亭があり、内部には[[旅順]][[黄金山]](現・[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[大連市]][[旅順口区]])から日露戦争の戦利品として持ち出された[[鴻臚井]]が現在も安置される。中華人民共和国の一部の民間団体からは同碑の返還を求める行動が提起されているが実現には至っていない。
 
中央本館は東西65尺(約20m)、南北26尺(約8m)、南に面して建てられ、海陸両軍の戦利品をおさめた。前庭西側に曲廊を架して、これに連続する2階建ての右翼陳列所には戦病将卒の写真、姓名録、ならびに日本軍が使用した小型武器、被服等がおさめられた。後に、当時出征した後備歩兵聯隊に授けられた軍旗50余が追加陳列された。このほかに、御休所、模型置場、日本軍使用の大型武器を陳列した施設、戦利に属する大型武器を陸海両軍に分けて格納した2つの舎屋などがあった。
 
模型置場は、[[1973年]](昭和48年)11月に[[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]に払い下げられて同町内に移築・復元の上、[[1974年]](昭和49年)[[11月1日]]から那須町民俗資料館として使用・公開されている<ref name="nasu">『[http://www.town.nasu.lg.jp/hp/page000001600/hpg000001514.htm 那須町民俗資料館 - 那須町公式ホームページ]』那須町ホームページ</ref>。
 
本館左翼側には唐碑亭があり、内部には[[旅順]][[黄金山]](現・[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[大連市]][[旅順口区]])から日露戦争の戦利品として持ち出された[[鴻臚井]]が現在も安置される。中華人民共和国の一部の民間団体からは同碑の返還を求める行動が提起されているが実現には至っていない。
 
旧収蔵品の一部である[[旅順港閉塞作戦]]にて使用された日本海軍在籍の[[朝顔丸]]の船首像は、[[1948年]](昭和23年)に御府から海技専門学院(現・[[海技大学校]])に譲渡され、さらに[[神戸大学]]に引き継がれ、現在同大学の海事博物館に保管・展示されている<ref name="kobe">『[http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/shiryou_det.cgi?shiryou_no=89 朝顔丸船首像 - 神戸大学海事博物館資料情報]』神戸大学海事博物館ホームページ</ref>。
 
=== 惇明府([[第一次世界大戦]]) ===
[[File:Junmeifu.JPG|thumb|200px|惇明府]]
建安惇明の西にありは、[[1918年]](大正7年)、[[日独戦争]]終了後、[[第一次世界正天皇]])終了後、建安府の西に置かれた。日本兵がイギリス軍と力をあわせ、[[青島市|青島]]を包囲してこれをやぶったときの戦利品を保存しようという叡旨によりするため明治天皇の振天、懐安など前出府の制にならって[[大正天皇]]の発案により造営したものである。題額は、天皇の命により、[[東伏見宮依仁親王]]勅を奉じて揮毫したものである
 
=== 顕忠府([[日中戦争]]) ===
顕忠府は、[[1936年]](昭和11年)に、[[昭和天皇]]の発案により造営された。[[日中戦争]]に関連する事物を収蔵・保管した。
 
== 脚注 ==