「榊原忠之」の版間の差分

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| 主君 = [[徳川家斉]]→[[徳川家慶|家慶]]
| 藩 =
| 氏族 = [[織田氏#信長の弟の末裔|織田弥十郎家(織田氏信包系信当流)]]→[[榊原氏]](式部大輔家)
| 父母 = 父:[[織田信昆]]、養父:''[[榊原忠尭]]''
| 兄弟 = [[織田信彭]]、'''忠之'''
| 妻 = [[藤懸永種]]娘<ref>『[[寛政重脩諸家譜]](藤原氏支流)』</ref>
| 子 = [[榊原忠義|忠義]]
| 特記事項 =
}}
 
'''榊原 忠之'''(さかきばら ただゆき)は、[[江戸時代]]中期から後期にかけての[[旗本]]。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[主計寮|主計頭]]。[[町奉行|江戸北町奉行]]として手腕を振るい、[[鼠小僧|鼠小僧次郎吉]]を捕らえたことで著名である
 
== 経歴 ==
旗本・[[織田信義]]の四男である[[織田信昆]]の三男として誕生した。[[榊原忠尭織田信包]]の7代のとな孫にあたる。
 
[[榊原忠尭]]の養子となり、[[寛政]]8年([[1796年]])4月19日、養父・忠尭の隠居により家督を相続、11代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家斉]]に拝謁する。
忠之が継いだ旗本榊原家は、[[榊原忠勝]]の次男[[榊原忠重]]が祖。祖父である[[榊原忠政|榊原隼之助忠政]]は、[[徳川家康]]が今川家に人質に出されていた際に付き従った小姓の一人とされる。
 
忠之が継いだ旗本榊原家は、[[寛政榊原忠勝]]8年(の次男[[1796年榊原忠重]])4月19日、養父・忠尭の隠居により家督相続祖とし11代祖父である[[征夷大将軍榊原忠政|将軍榊原隼之助忠政]][[徳川家]]が今川家拝謁す人質に出されていた際に付き従った小姓の一人とされる。榊原家は[[上野国]][[邑楽郡]]・[[山田郡 (群馬県)|山田郡]]・[[相模国]][[鎌倉郡]]上野村(現在の横浜市[[栄区]][[上郷町 (横浜市)|上郷町]])内などで700石を領有する旗本であった。曽祖叔母は江ノ島岩本院(現在の[[江島神社]])に嫁いでいる<ref>堀田正敦編『寛政重脩諸家譜』第1輯、巻101「義家流足利支流・榊原系図」より。國民圖書、1922</ref>。
 
忠之は[[織田信包]]の七代の子孫にあたり、[[徒士]]頭、西ノ丸[[目付]]、[[小普請奉行]]と昇進し、主計頭に叙任。[[文化 (元号)|文化]]12年([[1816年]])には勘定奉行に、[[文政]]2年([[1819年]])閏4月1日に北町奉行に栄転した。
 
北町奉行としての忠之は迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民から人気があった。北町奉行在任は17年に及び、これは歴代江戸町奉行でも長期にわたる。『想古録』では、「前任者が七八年、時には十年以上掛かっていた採決を二三日で行ってしまう」ほどのスピード裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で訴訟費用に苦しんでいた江戸庶民から歓迎された。また、在任中に[[鼠小僧次郎吉]]、[[相馬大作事件|相馬大作]]、[[木鼠吉五郎]]など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。
 
木鼠吉五郎を尋問した際には、吉五郎が最後まで自白しなかったため、[[察斗詰]]を[[老中]]に申請して措置を下した。[[天保]]7年([[1836年]])9月20日、長く要職を務めた町奉行から旗本の名誉職である[[大目付]]に転任した。さらに、天保8年([[1837年]])5月16日に[[留守居]]に転じたが、同年7月20日に死去した。享年72。
 
老中[[水野忠邦]]から[[台付]]の流行を取り締まるよう命じられた時、一旦「畏まりました」と引き下がった後で、隣室で大声で水野老中に聞こえよがしに「[[富籤|富くじ]]を幕府公認の博打として許しながら、町人が行うささやかな台付のみを取り締まれという御触が出せるものか!」と言い、台付規制を撤回させた。また、癒着を求めて商人[[杉本茂十郎]]が賄賂を差し出してきた折には、逆に杉本を摘発するなど、剛直で私曲のない人物を伺わせる話が伝わっている<ref>これらの忠之の事跡はほとんど丹野顕『江戸の名奉行』文春文庫、2012による。</ref>。
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{{DEFAULTSORT:さかきはら たたゆき}}
[[Category:榊原式部大輔家|たたゆき]]
[[Category:勝幡織田氏]]
[[Category:江戸幕府目付]]
[[Category:江戸幕府大目付]]
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[[Category:江戸幕府町奉行]]
[[Category:江戸幕府留守居]]
[[Category:榊原式部大輔家|たたゆき]]
[[Category:勝幡織田弥十郎家]]
[[Category:1766年生]]
[[Category:1837年没]]