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{{Otheruses|主として仏教やインド哲学の概念|原因と結果の概念に関する総合的記事|因果性}}
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'''因果'''(いんが)は、原因と結果を意味する用語{{refnest|name="in'ga_nipponica"|[[三枝充悳]]、[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%A0%E6%9E%9C-32778#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「因果」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。仏教用語として用いられる場合は[[業]](カルマ)論と関連せしめられて自己の境遇に関する因果関係として語られる。{{refnest|name="in'ga_sekaidaihyakka"|[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%A0%E6%9E%9C-32778#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 「因果」 - 世界大百科事典 第2版]、平凡社。}}時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。
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因果は 転じて[[原因]]と[[結果]]のことを指すようになった。
 
ある事象を惹起させる直接的なもとと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bをひき起こすとき、AをBの原因といい、BをAの結果という。このとき、AとBの間には因果関係があるという。
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==ヴェーダやバラモン教における説明==
=== 因中有果(いんちゅううか) ===
正統[[バラモン教]]の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。
 
== 仏教における説明 ==
善因には善果、悪因には悪果が訪れるという[[業]]の因果の法則が説かれている。仏教では、一切の存在は本来は善悪無記であると捉え、業に基づく[[輪廻]]の世界では、苦楽が応報すると説かれている。一切は、直接的要因('''[[因]]''')と間接的要因('''[[縁]]''')により生じるとされる。また、「原因に縁って結果が起きる」という法則を、[[縁起]]と呼ぶ。縁起の解釈は流派によって異なり、「縁起説」とも呼ばれている。
 
仏教において因果は次のように説かれる。
* '''善因善果'''(ぜんいんぜんか)…善が善をうむ
* '''悪因悪果'''(あくいんあっか)…悪が悪をうむ
* '''善因楽果'''(ぜんいんらっか)…善が楽をうむ
* '''悪因苦果'''(あくいんくか)…悪が苦をうむ
 
善因には楽果、悪因には苦果が訪れるという法則を'''同類因・等流果'''と呼ぶ。一方、因は善あるいは悪であり、果は無記であることにおいて、因と果は性質が異なることを'''異熟因・異熟果'''と呼ぶ。
 
単純に「善因善果・悪因悪果」について“善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる”と解説される場合があるが、因と果は、数えきれないほどの過去における生を想定する概念であるために、その機序は複雑であり、今生の因が今生で果となるとは限らない。また、「良いことをすれば思い通りのことが起きる」という独自な教えを説く団体もあるが、厳密には正確な解釈ではない。
 
=== 過去現在因果経 ===
[[Image:E innga kyo.jpg|thumb|320px|挿絵のついた『過去現在因果経』(8世紀、日本)<!--The Illustrated Sutra of Cause and Effect''. 8th century, [[Japan]]--> ]]
『[[過去現在因果経]]』は、[[5世紀]]に[[求那跋陀羅]](ぐなばつだら)によって[[漢訳]]された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行([[本生譚]]、ジャータカ)と現世での事跡([[仏伝]])を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。
 
=== 因果応報 ===
一切が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、因果応報と呼ぶ。
 
「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。
 
もともとインドにおいては、[[沙門|沙門宗教]]{{refnest|name="森章司_遊行と僧院の建設とサンガの形成"|[http://www.sakya-muni.jp/monograph/14/16/ 【概要】遊行と僧院の建設とサンガの形成 (森 章司)] - 「中央学術研究所紀要」モノグラフ篇 No.14}}や[[バラモン教]]などさまざまな考え方において広く、'''[[業]]'''と'''[[輪廻]]'''という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。
 
仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道(あるいはそこから修羅を除いた五道)をぐるぐると輪廻しているとする。
 
仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。
 
修行によって悟ることができない人の場合は、(現世で悟りに至らなくても)善行を積むことで天界に生まれる(=生天)のがよいとされた。
 
====因果応報説の受容====
インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていたが、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではない。
 
中国ではもともと『[[易経]]』などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想はあった。だが、これは現世の話であり、家族・親族の間でそのような影響がある、という考え方である。輪廻という考え方をしていたわけではないので、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方には違和感を覚える人たちが多数いた。中国の伝統的な思想と仏教思想との間でせめぎあいが生じ、[[六朝]]期には仏教の因果応報説と輪廻をめぐる論争([[神滅・不滅論争]])が起きたという。
 
とはいうものの、因果応報説はやがて、六朝の時代や[[唐]]代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の[[道教]]の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていった。
 
日本では、平安時代に『[[日本霊異記]]』で因果応報の考え方が表現されるなどし、仏教と因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていった。現在、日本の日常的なことわざとしての用法では、後半が強調され「悪行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多い。ただ、ここにおいての因果応報という考えも輪廻との関わりよりも、現実での利益を強調しているという事実も見逃すことはできない。
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== 認識と発話(パロール)の因果関係 ==
人間は考えるとき言葉を使って考える。認識と発話は規則的に対応して意思・行動になる。
 
この規則は人間の意識では変更できない。それだけに、飲酒や薬物などでその規則性・因果律を歪めたい欲望が生まれる。音楽もまた認識と発話の規則性に作用する。
 
認識と発話の間に因果律が在ると考えると、それが個性とか意識下・潜在意識の人格と考えられる。
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== 関連項目 ==
* [[縁起]]
* [[因縁]]
* [[因縁生起]]
* [[諸行無常]]
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*[[相関関係と因果関係]]
*[[先後関係と因果関係]]
*[[因果律]]
*[[因果的閉鎖性]]
*[[相当因果関係]]
*[[前後即因果の誤謬]]
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==脚注・出典==
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<references/>