「東京大学航空研究所」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1918年]](大正7年)4月1日、[[東京大学|東京帝国大学]][[航空学調査委員会]]が航空研究所となる。同年7月に、[[深川区]][[越中島]]の[[東京工業試験所]]跡地(現[[東京海洋大学]]越中島キャンパスグランドの隣)へ移転。[[1923年]](大正12年)9月1日、[[関東大震災]]に被災。応急処置を施したまま研究を続けていたが、[[1931年]](昭和6年)、[[駒場]]へ移動
[[1923年]] (大正12年) 9月1日、[[関東大震災]]に被災。応急処置を施したまま研究を続けていたが、
[[1931年]] (昭和6年) 、[[駒場]]へ移動。
 
他の[[陸軍航空本部]]技術部(東京府立川)、[[海軍航空技術廠|海軍航空廠]]([[神奈川県]]田浦)のように、航空機の設計、製作を直接に主眼とする研究施設とは異なる。
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[[東京市]][[深川区]][[越中島]]にあって[[関東大震災]]に遭遇し、のち[[東京府]][[目黒町 (東京府)|目黒町]][[駒場 (目黒区)|駒場]]に移った。
 
航空研究所としては外観、内容、ともに欧米のそれに勝るとも劣らない、日本の学術施設としては屈指の大施設であった。所長の下、研究を行う所員(帝国大学[[教授]]、[[助教授]]、[[大日本帝国陸軍|陸]][[大日本帝国海軍|海軍]][[佐官|佐]][[尉官]]、同相当官から補せられる)があり、これを助ける技師、技手以下職員(昭和初年300名弱)がいた。
所長の下、研究をおこなう所員(帝国大学[[教授]]、[[助教授]]、[[大日本帝国陸軍|陸]][[大日本帝国海軍|海軍]][[佐官|佐]][[尉官]]、同相当官から補せられる)があり、これを助ける技師、技手以下職員(昭和初年300名弱)がいた。
 
所内は、物理部、化学部、冶金部、材料部、風洞部、発動機部、飛行機部、測器部、航空心理部などに分かれ、研究成果は『航空研究所報告』(不定期刊行)、『航空研究所彙報』(月刊)に発表された。