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==第一次国共合作==
第一次国共合作は、[[軍閥]]および[[北京政府]]に対抗する共同戦線であった。国民党は[[1924年]][[1月20日]]、[[広東]]で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。[[陳独秀]]や[[毛沢東]]ら中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。
 
1925年[[孫文]]が死去し、1926年に[[中山艦事件]]で[[蒋介石]]が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後[[国民革命軍]]総司令官になって実権を握った蒋介石が同年[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始し、1927年に[[南京市|南京]]に[[国民政府]]が成立。1927年4月の[[上海クーデター]]によって国共合作は事実上崩壊。[[7月13日]]、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、[[国共内戦]]に突入した。
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=== 歴史 ===
==== 国共内戦の激化 ====
中華民国の国家[[主席]]に就任後、[[蒋介石]]は意欲的に中国の[[近代化]]を推進する[[改革]]を行った。しかしその頃、ソビエト連邦の支援の下、[[毛沢東]]が指揮する[[中国共産党]]は農村を中心として支配領域を広げていき、[[1931年]]には[[江西省]]に「[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時政府]]」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は[[1930年]]12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な剿共戦([[:en:Encirclement Campaigns|英語版]])<ref>「剿共」([[ピン音]]でジャオゴン)とは、共産党討伐の意。日本では「しょうきょう」と読む。</ref>を展開、[[1934年]]10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込み、共産党は西部奥地のソ連国境に近い[[延安市|延安]]への逃避行(共産党の言い方では[[長征]])でしのぎ、西安事件で復活の切っ掛けを掴んだ。
 
==== 国共再合作への道 ====