「飛鳥井雅経」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Jyunretsu (会話 | 投稿記録)
m Category:日本の詩人を除去 (HotCat使用)
編集の要約なし
23行目:
}}
 
'''飛鳥井 雅経'''(あすかい まさつね)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]前期にかけての[[公]]・[[歌人]]。[[刑部省|刑部卿]]・[[難波頼経]]の次男。二条または明日香井を号す。[[官位]]は[[従三位]]・[[参議]]。[[飛鳥井家]]の祖。[[百人一首|小倉百人一首]]では'''参議雅経'''。
 
== 生涯経歴 ==
[[治承]]4年([[1180年]])叙爵し、以後[[侍従]]などを歴任するが、[[源頼朝]]・[[源義経|義経]]兄弟が対立した際に義経と親しかった父・頼経が配流され、雅経も連座して[[鎌倉]]に護送される。だが、雅経は頼朝から[[和歌]]・[[蹴鞠]]の才能を高く評価され、頼朝の息子である[[源頼家|頼家]]・[[源実朝|実朝]]とも深く親交を結んだ。その結果、頼朝から[[猶子]]として迎えられ、更に[[鎌倉幕府]][[政所]][[別当]]・[[大江広元]]の娘を正室とするなど重んじられた。[[建久]]8年([[1197年]])に罪を許されて帰京する際には、頼朝から様々な贈物を与えられた。
 
その後、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の[[院近臣|近臣]]として重んじられ、[[建保]]6年([[1218年]])には[[従三位]]に叙せられ、承久2年([[1220年]])には[[参議]]に任命された。また、院における歌壇でも活躍している。和歌は秀句を好み、後鳥羽上皇に「雅経は、殊に案じかへりて歌詠みしものなり(=雅経はとりわけあれこれ思いめぐらして歌を詠む者である)」<ref>『後鳥羽院御口伝』</ref>と評されたが、本歌のことばをとりすぎるという批判もあった。
 
[[建仁]]元年([[1201年]])[[7月 (旧暦)|7月]][[和歌所]][[寄人]]となり、また同年[[11月 (旧暦)|11月]]には上古以来の和歌を撰進する。更にこれを機に始まった[[勅撰和歌集]]『[[新古今和歌集]]』([[元久]]2年([[1205年]])奏進)の撰者の一人となった。更に蹴鞠でも重んじられ、[[承元]]2年([[1208年]])に[[大炊御門頼実]]が後鳥羽上皇を招いて開いた鞠会で優れた才能を発揮して、上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられた。後に雅経は飛鳥井流蹴鞠の祖とされ、『[[蹴鞠略記|蹴鞠(しゅうきく)略記]]』などを著した。また、鎌倉幕府の招きによって鎌倉へ度々下向し、3代将軍になった実朝と[[藤原定家]]・[[鴨長明]]との間を取り持っている。
40行目:
*母:[[源顕雅]]の娘
*妻:[[大江広元]]の娘
**男子:[[飛鳥井教雅]]
**男子:[[飛鳥井教定]](1210-1266)
**男子:[[飛鳥井教経]]
*生母不の子女
**女子:[[藤原忠継]]室
**女子:[[安達義景]]継室
61行目:
 
{{DEFAULTSORT:あすかい まさつね}}
[[Category:12世紀の歌人]]
[[Category:13世紀の歌人]]
[[Category:難波家|まさつね]]
[[Category:飛鳥井家|まさつね]]
[[Category:難波家|まさつね]]
[[Category:平安時代後期の貴族]]
[[Category:鎌倉時代の公家]]
[[Category:鎌倉時代の歌人]]
[[Category:12世紀の歌人]]
[[Category:13世紀の歌人]]
[[Category:蹴鞠に関する人物]]
[[Category:1170年生]]