「秩父宮雍仁親王」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 「今上天皇」という表現を排除
編集の要約なし
2行目:
| 人名 = 秩父宮雍仁親王
| 各国語表記 =
| 家名・爵位 = [[秩父宮]]家
| 画像 = Prince Chichibu-Yasuhito2.jpg
| 画像サイズ = 200px
23行目:
| 役職 =
}}
[[Imageファイル:Emperor Taisho's sons 1921.jpg|thumb|250px|right|[[1921年]](大正10年)、大正天皇の4皇子たち。<br />左から皇太子裕仁親王(後の[[昭和天皇]])、澄宮崇仁親王(後の[[三笠宮崇仁親王|三笠宮]])、光宮宣仁親王(後の[[高松宮宣仁親王|高松宮]])、淳宮雍仁親王]]
 
'''秩父宮雍仁親王'''(ちちぶのみや やすひとしんのう、[[1902年]]([[明治]]35年)[[6月25日]] - [[1953年]]([[昭和]]28年)[[1月4日]])は、[[日本]]の[[皇族]]。[[大正天皇]]と[[貞明皇后]](同日の誕生日であった)の第二皇男子。[[昭和天皇]]の弟宮、[[上皇明仁|第125代天明仁]]の[[おじ|叔父]]、第126代天皇[[徳仁]]の大叔父にあたる。
 
妃は[[雍仁親王妃勢津子|勢津子]](旧[[会津藩]]主・[[松平容保]]の四男で[[外交官]]を務めた[[松平恆雄]]の長女)。[[御称号]]は'''淳宮'''(あつのみや)。[[身位]]は[[親王]]。[[お印]]は[[マツ|若松]](わかまつ)。[[階級]]は[[少将|陸軍少将]]。[[勲等]][[金鵄勲章|功級]]は[[菊花章|大勲位]]功三級。勢津子妃との間に子女はない。
 
== 生涯来歴 ==
[[File:Chichibunomiya's palace.jpg|thumb|180px|赤坂表町の秩父宮御殿]]
 
=== 生い立ち ===
幼少の頃は兄の[[昭和天皇|迪宮裕仁親王]](当時)、弟の[[高松宮宣仁親王|光宮宣仁親王]]と共に育ち、年齢の近い三兄弟とも仲は良かったと言う。兄弟の中では最も活溌であり、そのことは1つ違いの兄宮とよく比較された。玩具の取り合いで兄宮と喧嘩し、先に手を出すことも多々あった。しかし兄がいない時は小心であり、自ら「内弁慶であった」と、戦後に回想している。
66 ⟶ 68行目:
 
 
[[1952年]](昭和27年)1月に[[静岡県]][[御殿場市]]から[[神奈川県]][[藤沢市]][[鵠沼]]別邸に移った。同年暮に病状が悪化し、[[1953年]](昭和28年)[[1月4日]]に薨去した。
 
== 死後 ==
72 ⟶ 74行目:
薨去に先立ち[[遺書]]をしたためており、その中で「[[死体|遺体]]を[[解剖]]に附すこと」、「[[火葬]]にすること」、「[[葬儀|葬式]]は如何なる[[宗教]]にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が勅許を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては異例の[[病理解剖]]が行われた。
 
1953年[[1月12日]]、葬儀は皇族として最低限の神道形式で行われ、皇族・各国大使・スポーツ関係者ら800人が参列した<ref>1953年1月12日 朝日新聞(夕刊)「氷雨のなか故秩父宮御葬儀 告別に人波二万五千」</ref>。その後、無宗教での一般告別式が行われ、2万5000名あまりの市民が秩父宮の遺体に拝礼した<ref>1953年1月12日 朝日新聞(夕刊)「豊島岡へのしめやかな葬列 妃殿下の頭上らず」</ref>。その後、午後1時から火葬された(皇族の埋葬は、当時は[[土葬]]が基本)。遺骨は、同日午後4時20分に、[[豊島岡墓地]]の比翼塚形式の簡素な墓に愛用の品々とともに埋葬された。
 
この葬儀に、昭和天皇は出席しなかった。これは天皇が親王など「目下」の者の葬儀に出席した前例がなく、[[皇室喪儀令]](廃止されたが、基準となっている)にも規定がないため、天皇が出席することで仰々しくなり秩父宮の遺志に副わないとの懸念から、出席を断念したものである<ref>1953年1月10日 朝日新聞「陛下はなぜお出にならぬか 親王葬儀御参列は“異例”」</ref>。ただし、天皇・皇后は何度も、遺骸と会いに行った上で、翌13日には墓参に訪れている。また秩父宮存命時の見舞いも、天皇が見舞うのは危篤の場合のみという前例から、結局果たせなかった。
129 ⟶ 131行目:
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references group="注釈"/></div>