「S21 (トゥール・スレン)」の版間の差分

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革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いないという、[[ポル・ポト]]を始めとする党中央の[[被害妄想]]に、現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる[[拘禁反応]]によって看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。彼らの遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になったのと、処刑時の叫び声が響く事から、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15kmのチュンエク村に移された(のちにそこは「[[キリング・フィールド]]」と呼ばれることになる)。同じ理由からか尋問の場所もリセの正門前の民家に広げられた。あるいは手狭になったためかも知れない。
 
S21の指揮官であった[[ドッチ]]は、自分は命令に従っただけだと述べた。彼はかつて高校の[[数学]]を師で、しかも中国系える立場にあった[[知識人]]である事から[[粛清]]の標的になりやすい立場にいた。そのため党中央の威光に縮み上がり怯え、なおかつ計算高くその意向(反革命分子をあぶり出すためにあらゆる手段を使う事)に従おうとした事は想像に難くない。所長でさえこうした姿勢であったため、あまつさえ看守は忠誠を示すために残虐行為を当然の如くに行った。看守には10代の少年少女がなる事が多かったが、S21の秘密を守るための粛清の危険に常に晒されていた。実際、多くの看守が後に収容され処刑されている。
 
拷問が激化するのと、S21が生きては出られぬ収容所となったのは軌を一にしているが、「一度収容された囚人は有罪と決まっている→拷問し処刑する→S21の拷問と虐殺の実態が外部に漏れぬようにするため、ますます囚人を何が何でも有罪にして処刑しなければならない→さらに拷問が激化する」と言う悪循環に陥っていた点では、ナチス・ドイツの[[強制収容所]]などと通底するものがある。
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== 関連項目 ==
*[[カン・ケク・イウ]] - トゥール・スレンの所長
*[[ポル・ポト]]
*[[クメール・ルージュ]]