「第四次対仏大同盟」の版間の差分

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== 同盟 ==
1805年12月2日、[[アウステルリッツの戦い]]に勝利したナポレオンは、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]を[[第三次対仏大同盟]]から脱落させた。しかし、[[イギリス帝国|イギリス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[スウェーデン王国|スウェーデン]]は依然として同盟を維持していた。1806年7月、ナポレオンは[[ライン同盟]]を結成、これによってフランスの覇権は中部ドイツまで及ぶこととなった。領域を接する[[プロイセン王国|プロイセン]]は、1795年のバーゼルの和約以来10年に渡って中立を維持していたが、これにより危機感を抱いた。既に前年の戦役中にフランス軍により[[アンスバッハ]]が領土侵犯を受けた事で反仏感情が高まっており、加えて、ナポレオンがイギリスとの交渉にて、プロイセン領となっていたハノーファーを断りなくイギリスに手渡そうとした事を知るに及び、普仏の決裂対立は避けられないものとなった。{{sfn|Hagemann|2015|pp=33}}プロイセンは7月にロシアと同盟を結んだ。イギリスなども含む第四次対仏大同盟は10月6日に成立した。
 
第四次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。
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* [[スウェーデン王国]]
[[画像:Brodowski Napoleon Elbe.jpg|thumb|right|300px|エルベ川を渡るナポレオン]]
 
== ドイツ・ポーランド戦役(1806年 - 1807年) ==
=== イエナ・アウエルシュタットの戦い ===