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Pinkpastel (会話 | 投稿記録)
+ thumb|250px|[[片瀬海岸で学習院の生徒らに水泳を指導する乃木希典。]]
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==== 凱旋 ====
[[ファイル:Nogi.jpg|250px|thumb|『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵]]
乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の[[津野田是重]]に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、[[賠償金]]はとれないであろうこと、および、[[樺太]]すべてを割譲させることは困難であることなどを述べている{{Sfn|岡田|2001|p=195}}。
 
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=== 乃木に対する世界的賞賛 ===
[[ファイル:Nogi.jpg|250px|thumb|『ニーヴァ』誌に掲載された乃木の挿絵]]
乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された{{Sfn|大濱|2010|p=179}}。また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された{{Sfn|佐々木|2005|p=76}}。乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した{{Sfn|佐々木|2005|p=78以下}}。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された{{Sfn|佐々木|2005|p=435}}。
 
=== 学習院長就任 ===
[[ファイル:Gakusyuin University nogi-kan.JPG|thumb|250px|乃木館(旧総寮部)]]
[[File:褌一丁姿の乃木希典.jpg|thumb|250px|[[片瀬海岸]]で学習院の生徒らに水泳を指導する乃木希典。]]
==== 明治天皇による勅命 ====
明治40年([[1907年]])[[1月31日]]、[[軍事参議院|軍事参議官]]の乃木は[[学習院]]長を兼任することとなったが、この人事には明治天皇が大きく関与した。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏した。しかし、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の[[昭和天皇]])が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した{{Sfn|岡田|2001|p=209以下}}{{Sfn|佐々木|2005|p=38-39}}。
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==== 乃木式教育 ====
[[ファイル:Gakusyuin University nogi-kan.JPG|thumb|250px|乃木館(旧総寮部)]]
乃木は、当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、6棟の寄宿舎を建て、学生と寝食を共にして生活の細部にわたって指導に努めた(なお、学習院は[[1908年]](明治41年)に[[目白]](現・[[東京都]][[豊島区]]目白)の現在地へ移転した)。その際の乃木の居室であった総寮部は、「乃木館」(国[[登録有形文化財]]、乃木没後に移築)として現在も保存されている。