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石ノ森章太郎
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=== デビュー以後 ===
高校在学中の[[1954年]](昭和29年)<ref name="怪人大画報" />{{refnest|group="注釈"|書籍によっては1955年と記載している{{Sfn|石ノ森ヒーローファイル|2013|pp=124 - 125 |loc = 石ノ森章太郎年表}}{{Sfn|昭和石ノ森ヒーロー列伝|2013|pp=106 - 111 |loc = 石ノ森章太郎ヒストリー}}。}}、手塚治虫の仲介が入り、石ノ森は漫画少年漫画家としてデビューすることになる<ref name="mk">石ノ森章太郎のマンガ教室。</ref>。デビュー作は『漫画少年』新年号にて掲載された『二級天使』<ref name="怪人大画報" />。厳格な[[公務員]]であった父からは漫画家になることを反対されていたが、喘息持ちの姉が両親を説得するなど熱心に応援してくれたこともあり、翌年の高校卒業と同時に姉の病気治療も兼ねて2人で上京する。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいた[[トキワ荘]]に住み、作家活動を始めた。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、[[赤塚不二夫]]<ref group="注釈">初期の『少女クラブ』に掲載された作品には、[[赤塚不二夫]]との共同ペンネーム'''いずみあすか'''名義、赤塚および[[水野英子]]との共同ペンネーム'''U.マイア'''名義のものなどがある。</ref>などは、自分の漫画を描くよりも、石ノ森のアシスタントをする時間の方が多いほどだった。また創作速度も極めて速く、[[藤子不二雄]]<ref group="注釈">藤子の『[[オバケのQ太郎]]』の主人公「大原正太」は石ノ森の名前を元にしている。また「藤子不二雄」の共同ペンネームをやめて藤子不二雄Fとなった藤本弘に[[藤子・F・不二雄]]にするよう助言をしたのも石ノ森である。</ref>やのちに石ノ森のアシスタントを務めた[[永井豪]]など、石ノ森を知る人間は口を揃えて制作の速さを証言している。藤子の『[[まんが道]]』では、藤子が2人で1日に5、6枚描ければよいところを、石ノ森は1人で15-20枚を描いていたという話が出てくる。また石ノ森のエッセイ漫画『サンジェルマン伯爵』([[サイボーグ009#第6期(1977-1979年)|サイボーグ009「海底ピラミッド編」]]のエピローグに相当)には、「昔(赤塚不二夫と2人で描いていた時代)は月650枚という無茶もやったが、最近では歳だから300枚でフウフウいう」とある。[[島本和彦]]は文庫版『石ノ森章太郎のマンガ家入門』の解説で、「石ノ森章太郎は考えずに、考えたあとの結果を惹きだせる作家ということになる。(中略)その後、石ノ森章太郎本人にたずねたことがあるが、この私の理解は正しかった。描くときは「感覚」で描くのだ。しかも「考えながら描くと良いものが出ない」ということなのだ」と語っている<ref>石森章太郎 『石ノ森章太郎のマンガ家入門』ISBN 4-253-17250-4 [[秋田書店]]〈秋田文庫〉272頁</ref>。
 
しかし[[1958年]](昭和33年)4月、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝した<ref group="注釈">石森章太郎 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』ISBN 978-4-06-183752-2 [[講談社]]〈講談社文庫〉、1986年、208頁によれば、死因は持病だった喘息の発作を抑えるための「モルヒネの打ちすぎによる[[心臓発作]]」。石ノ森は、「姉が倒れて救急車を呼び、入院して注射を打ったところ、容態が安定した」ように見えたため、一旦トキワ荘に帰り、その後、赤塚、水野英子と共に映画を見るために外出。帰ったところに「病院に来る」よう、電報が届いた、と記述している。また、石ノ森の姉が亡くなった当日、石ノ森、赤塚と終日行動を共にしていた水野も自著『トキワ荘日記』(自費出版、2009年)の中で、石ノ森の言動を含めて事態を詳細に記述している。さらに、この出来事は、石ノ森、水野の証言と比べると、細部がかなり異なってはいるが、[[藤子不二雄A]]の著作『[[まんが道#愛…しりそめし頃に…|愛…しりそめし頃に…―満賀道雄の青春]]』にも描かれている。</ref>。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。