「レオ1世 (東ローマ皇帝)」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[トラキア]]生まれで[[トラキア人]]<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>の帝国軍人であったが、東ローマ皇帝[[マルキアヌス]]が没した後、帝国の[[ゲルマン人]]軍事長官であった{{仮リンク|[[アスパル|en|Aspar}}]]によって皇帝として擁立された。このような即位の経緯から、治世前期のレオ1世はアスパルとその息子[[{{仮リンク|アルダブリウス]] (447年の執政官)|en|Ardabur (consul 447)|label=アルダブリウス}}の傀儡にすぎなかった。しかし471年、{{仮リンク|イサウリア族|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}の族長タラシコデッサ(後の皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]])の力を借りてアスパル父子を打倒し、皇帝としての地位を確固たるものとした。
 
レオ1世はローマ帝国の共同統治者として[[西ローマ帝国]]での主導権をも望み、[[467年]]には[[アンテミウス]]を、[[474年]]には[[ユリウス・ネポス]]を西ローマ皇帝と宣言して西ローマ帝国へ送り込み、自らが任命したアンテミウスとユリウス・ネポス以外の西ローマ皇帝を正式な皇帝とは認めなかった<ref name="松原2010LeoI" />。こうした介入の結果、西ローマ帝国は東ローマ皇帝の介入から決別するべく、レオ1世の死の2年後の[[476年]]に西ローマ皇帝の地位の廃止を宣言した。
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474年1月18日、73歳で死亡した。
 
レオ1世は、皇帝就任に際して[[コンスタンティノープル総主教]]によって戴冠された初めての[[ローマ皇帝]]であると考えられている<ref name="松原2010LeoI" /><ref name="ギボン5p340" /><ref name="尚樹1999p51">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.51。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.84。</ref><ref>レオ1世に先だってマルキアヌスが先例であったとする説もある。([[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.119)</ref>。これ以降、総主教による戴冠は東ローマ帝国における皇帝就任の伝統となり、皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった<ref name="松原2010LeoI" /><ref name="尚樹1999p51" /><ref name="オストロゴルスキー2001p85">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.85。</ref>。この聖職者による皇帝戴冠という東ローマ帝国の風習は次第に[[古代ローマ]]の伝統を押しのけ[[中世]]的ローマ皇帝観の本質的部分となり<ref name="オストロゴルスキー2001p85" />、後に[[カール大帝]]や[[オットー1世]]の戴冠を経てローマ帝国の西方領土にも浸透することになった
 
また、彼は法律を[[ラテン語]]ではなく[[ギリシャ語]]で制定した最初のローマ皇帝ともされる。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[ゲオルグ・オストロゴルスキー]]|translator=[[和田廣]]|year=2001|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[恒文社]]|isbn=4770410344|ref=オストロゴルスキー2001}}
* {{Cite book|和書|author=[[尚樹啓太郎]]|year=1999|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[東海大学出版会]]|isbn=4486014316|ref=尚樹1999}}
* {{Cite book|和書|author=松原國師|year=2010|title=西洋古典学事典|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=9784876989256|ref=松原2010}}
 
== 関連項目 ==
*[[レオ朝]]
*[[アスパル]]
 
{{東ローマ皇帝}}