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[[File:Wang Fuzhi.jpg|thumb|王夫之]]
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'''王 夫之'''(おう ふうし、[[万暦]]47年9月1日([[1619年]][[10月7日]]) - [[康熙]]31年1月2日([[1692年]][[2月18日]]))は、[[中国]][[明]]末
== 経歴 ==
貧困と逃亡の日々の間にも学問著述に努め、[[四書五経]]を始め[[老荘思想]]や[[仏教]]などにも幅広い知識を有した。特に『春秋』の研究に優れ、『春秋家説』『春秋稗疏』『春秋世論』『続春秋左氏伝博議』などの著作を著している。他にも『[[資治通鑑]]』を論じた『読通鑑論』やそれに続く[[宋
明王朝が朝廷党争・将領離叛に明け暮れ、ついには民衆反乱・外夷(清)侵略によって滅んだことから、強い[[華夷思想]]と身分秩序の確立の必要性を表し、[[陽明学]]、特に[[李贄]]の思想を激しく批判した。その一方で尚古思想を厳しく切り捨てて、中華民族を復興して新しい政治を確立する必要を唱えた。そのために強力過ぎる皇帝権力を抑えて郡県制を軸とした分権制度を確立し、豪農の土地兼併や商人の営利活動を規制して、中小の自営農民を保護する体制確立を求めた。その思想は清末の反清民族活動にも強い影響を与えた。その後、[[アヘン戦争]]に先立ち「船山遺書」百五十巻が裔孫によって整理され、[[曽国藩]]兄弟が増補して上梓させた。ひいては[[譚嗣同]]・[[毛沢東]]が感銘を受けたといわれる。
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== 参考文献 ==
* 後藤基巳「王夫之」(『アジア歴史事典 2』([[平凡社]]、1984年))
* 佐藤錬太郎「王夫之」(『歴史学事典 5 <
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[[Category:中国の儒学者]]
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[[Category:清代の人物]]
[[Category:明代の人物]]
[[Category:太原王氏|ふうし]]
[[Category:衡陽出身の人物]]
[[Category:1619年生]]
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