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せすじ (会話 | 投稿記録)
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一方、北アジアではトルコ([[テュルク]])系民族として[[突厥]]が[[552年]]にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれを以てトルコの最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した[[西突厥]]の部族の一つから部族長[[トゥグリル・ベグ]]が出て西進を始めボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝を成立させた。さらに西進して1055年バクダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争って大敗し急激に衰えた、後にフラグの侵攻を受けて滅亡する。また中央アジアのトルコ系部族集団は、更にウイグル系民族に圧迫されてイラン(ペルシャ)北部、カスピ海東岸の隅地に逃亡し歴史の記録から消える。
 
[[11世紀]]に、トルコ系の[[イスラム王朝]]、[[セルジューク朝]]の一派がアナトリアに立てた[[ルーム・セルジューク朝]]の支配下で、[[ムスリム]](イスラム教徒)の[[トルコ人]]が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展した[[オスマン帝国|オスマン朝]]は、[[15世紀]]にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東は[[アゼルバイジャン]]から西は[[モロッコ]]まで、北は[[ウクライナ]]から南は[[イエメン]]まで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系の[[ティムール]]にアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するがチムールの侵略に、アナトリア南部の険に依って抵抗し命脈を保った一族が、ティムールの死後オスマン朝を復興した。
 
[[19世紀]]、衰退を示し始めた[[オスマン帝国]]の各地では[[ナショナリズム]]が勃興して諸民族が次々と独立した。帝国は[[オスマン債務管理局]]を通して列強に財政主権を握られ、[[第一次世界大戦]]で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した。また、東部では、アルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人たち(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たち)は国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした。この抵抗運動を'''トルコ独立戦争'''(1919年5月)という。1920年4月アンカラに抵抗政権を樹立した[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]](アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。[[1923年]]、アンカラ政権は[[ローザンヌ条約]]を締結して共和制を宣言した。翌[[1924年]]に[[オスマン家|オスマン王家]]の[[カリフ]]をイスタンブールから追放して、[[西洋]]化による近代化を目指す[[イスラム世界]]初の[[政教分離原則|世俗主義]]国家トルコ共和国を建国した。[[シャリーア]]は国法としての地位を喪失した。トルコは大陸法だけでなく、[[アメリカ合衆国]]などからの直接投資も受け入れることになった。
 
[[第二次世界大戦]]後、[[ソビエト連邦|ソ連]]に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年[[北大西洋条約機構|NATO]]に、また1961年[[経済協力開発機構|OECD]]に加盟した。NATOとOECD加盟の間は西陣営内で経済戦争が起こっていた([[ビッグバン (金融市場)#モルガンの米国預託証券|セカンダリー・バンキング]])。1956年ごろ、トルコは[[ユーロカレンシー|ユーロバンク]]の資金調達先となったので外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの[[綿花]]収穫量をぐんぐん増や急速に伸ばしたが、ソ連がすでに1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するトルコは、[[機関投資家|機関化]]する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。
 
[[国民の父|国父]]アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた([[欧州評議会|ヨーロッパ評議会]]への加盟、[[死刑|死刑制度]]の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標である[[欧州連合|EU]]への加盟には[[クルド人|クルド問題]]や[[キプロス|キプロス問題]]、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。