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エミール・クレペリンの臨床講義を聴きに行き握手を求めたが拒否される
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中学時代、[[佐佐木信綱]]の『歌の栞』を読んで短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始する。高校時代に[[正岡子規]]の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。
 
精神科医としても活躍し、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、文才に優れ、[[柿本人麻呂]]、[[源実朝]]らの研究書や、『ドナウ源流行』『念珠集』『童馬山房夜話』などのすぐれた随筆も残しており、その才能は[[宇野浩二]]、[[芥川龍之介]]に高く評価された。芥川が一番小説を書かせたいのは誰かと聞かれた際に、即座に茂吉の名を出したという。[[1923年]]、[[ミュンヘン]]留学中には長年憧れの対象であった[[エミール・クレペリン]]の臨床講義を聴きに行った際に握手を求めたところ、他の[[東南アジア]]の留学生とはにこやかに握手をしたにもかかわらず、握手を拒否され([[西丸四方]]は、大戦での敵国であった日本への遺恨が取らせた反応と推理している<ref>『精神医学の古典を読む』みすず書房,1989年、212ページ</ref>)、その無念の思いを歌と随筆に残した<ref name="MACHIAISHITSU">[[斉藤茂太]]『精神科の待合室』[[中公文庫]] 1978年3月発刊</ref>
 
[[太平洋戦争]]中の創作活動は積極的に戦争協力していた。