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ロベール1世が923年、諸侯に廃位された[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世]]を討って没した戦いでは、奮闘して勝利を得た。
 
936年義兄で[[ボゾン家]]の[[ラウール (西フランク王)|ラウール]]王が没し、大公は[[ロワール川]]と[[セーヌ川]]とに挟まれる地域の殆どの領主と修道院長職を占め<ref>シャルル3世が911年、侵攻の[[ノルマン人]]との和睦に与えた[[ノルマンディー]]は含まない(E. Hallam, p. 89)</ref>、[[ネウストリア]]第一の権力者になった<ref name="Guillot-&-al_170">O. Guillot, p. 170</ref>。自ら王位を継ぐことも可能ではあったが、大公はシャルル3世に懲りて嫌がる諸侯を説き、[[イングランド]]のウェセックスに亡命していたシャルルの遺児[[ルイ4世 (西フランク王)|ルイ]]を、新王に迎えた<ref>ルイは大公の2番目の妻ハトヴィヒ(エドヒルド)の甥に当たった。</ref><ref>樺山ほか、p. 176</ref>。ボゾン家による王位継承を避けたためと、解されている。
 
しかし、その翌年[[ザクセン公国|ザクセン]]のヘートヴィヒ([[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]と[[リンゲルハイムのマティルデ]]との娘)と結婚してから、ルイ4世と争い始め<ref>P. Riché, p.262</ref>、大公はルイと対立する神聖ローマ皇帝[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー大帝]]に臣従の礼をとって、対抗した<ref>''The Annals of Flodoard of Reims; 919-966'', p. 32</ref>。