「ルイ=エミール・ベルタン」の版間の差分

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== その後 ==
フランスへ帰国し、ベルタンは海軍機関学校(''Ecole du Génie Maritime'' )の校長に昇進した。[[1895年]]に造機大将(''ingénieur général'' )の地位を手に入れ、海軍艦政本部長(''Directeur des Construction Navales'' )になった。彼が本部長に在任中フランス海軍はトン数に換算して世界2位の海軍になった。しかしフランスに戻ってると皮肉にも、ヤサント・オーブ提督[[ジューヌ・エコール]]支持者と不和であることに皮肉にも気付きの関係が悪化し彼は同僚の設計者仲間のデザイン批判した。彼の批判は後の[[1915年]]に[[戦艦]]「[[ブーヴェ (戦艦)|ブーヴェ]]」の壊滅的なが無残に沈没すると、彼の批判の正当性が証明された。[[1903年]]に有名な[[フランス学士院]]に入会した。
 
== 遺産 ==