「大伴家持」の版間の差分

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父・旅人が[[大宰帥]]として[[大宰府]]に赴任する際には、母・丹比郎女、弟・[[大伴書持|書持]]とともに任地に従っている{{要出典|date=2011年4月|}}。後に母を亡くし{{要出典|date=2011年4月|}}、西下してきた叔母の[[大伴坂上郎女]]に育てられた{{要検証|date=2011年4月|}}。天平2年([[730年]])旅人とともに帰京{{要出典|date=2012年12月|}}。
 
天平10年([[738年]])に[[内舎人]]と見え、天平12年([[740年]])[[藤原広嗣の乱]]の平定を祈願する[[聖武天皇]]の[[伊勢国|伊勢]][[行幸]]に従駕。天平17年([[745年]])に[[従五位|従五位下]]に叙せられ、翌天平18年([[746年]])3月に[[宮内省|宮内少輔]]、次いで6月に[[越中国#国司|越中守]](富山県全域と石川県能登地方)に任ぜられて地方官に転じる。[[赴任]]中の天平21年([[749年]])従五位上に昇叙される一方で、223首の[[和歌]]を詠んだ。
 
[[天平勝宝]]3年([[751年]])[[少納言]]に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年([[754年]])兵部少輔、天平勝宝9年([[757年]])兵部大輔と[[孝謙天皇|孝謙]]朝後半は[[兵部省]]の次官を務める。この間の天平勝宝7年([[755年]])[[難波]]で[[防人]]の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『[[万葉集]]』の[[防人歌]]収集につながっている。[[天平宝字]]元年([[757年]])に発生した[[橘奈良麻呂の乱]]では、越中国赴任時に深い交流を持った[[大伴池主]]を始めとして[[大伴古麻呂]]や[[大伴古慈斐]]ら一族が処罰を受けたが、家持は[[謀反]]に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年([[758年]])に[[因幡国#国史|因幡守]]に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年([[759年]])正月に[[国府町 (鳥取県)|因幡国国府]]で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。
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== 歌人として ==
[[画像:Hyakuninisshu 006.jpg|thumb|200px|百人一首かるた読み札「中納言家持」]]
長歌・短歌など合計473首が『[[万葉集]]』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、[[私家集]]の観もある。『万葉集』の最後は、[[天平宝字]]3年([[759年]])正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。[[正五位|正五位下]]になるのは、11年後のことである。『[[百人一首]]』の歌([[カササギ|かささぎ]]の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。473首の内、223首は越中[現在の富山県全域と石川県能登地方]で歌われている
 
勅撰歌人として、『[[拾遺和歌集]]』(3首)以下の[[勅撰和歌集]]に60首が採られている<ref>『勅撰作者部類』</ref>。