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'''佐伯 祐三'''(さえき ゆうぞう、[[1898年]][[4月28日]] - [[1928年]][[8月16日]])は、大正~昭和初期の[[洋画家]]である。[[大阪府]][[大阪市]]出身。
==人物==
[[画像:YubinHaitatsuFu.jpg|250px|thumb|郵便配達夫(1928年)]]
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分を
佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区[[中津 (大阪市)|中津]]二丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・[[文京区]])にあった川端画学校に入り、[[藤島武二]]に師事する。旧制北野中学(現・[[大阪府立北野高等学校]])を卒業した後、1918年(大正7年)には、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現・[[東京藝術大学]])西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940892/99 『東京美術学校一覧 従大正12年至大正14年』東京美術学校、1925年11月、p.184]</ref>。東京美術学校では、卒業に際し[[自画像]]を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・[[佐伯米子]](旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し<ref>1回目は船で、2回目は早いので[[シベリア鉄道]]で渡仏(「ぶらぶら美術館」佐伯祐三特別展 [[宇都宮美術館]][[BS日テレ]][[2014年10月17日放送]])。</ref>、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、佐伯はパリ郊外の[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]([[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]の終焉の地として知られる)に、[[フォーヴィスム]]の画家[[モーリス・ド・ヴ
現在、佐伯の作品は[[大阪市立美術館#市立近代美術館計画|大阪中之島美術館準備室]]50点、[[和歌山県立近代美術館]]14点など、日本各地の34か所に所蔵されている<ref>週刊朝日百科 『日本の美術館を楽しむNo.24 三重県立美術館』 [[朝日新聞社]]、2005年、13頁</ref>。
== 主な作品 ==
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