「島津久徴 (加治木家)」の版間の差分

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== 略歴 ==
宝暦2年(1752年)、[[島津重年]]仮養子で知覧領主である[[島津久峰]]の長男として生まれる。宝暦4年([[1754年]])、先代加治木島津家当主で、従兄弟の[[島津重豪|島津久方]](重豪)が藩主[[島津重年|重年]]の世子となり、当主不在となったため、[[明和]]9年([[1772年]])に重豪の義弟として加治木島津家を相続した。[[天明]]4年([[1784年]])、[[長崎市|長崎]]より[[儒学者]]の伊藤世粛を招き、領内に郷校毓英館を設立する。また、[[寛政]]11年([[1799年]])には江戸より儒学者の秋岡冬日を招いた。寛政12年([[1800年]])、隠居して家督を嫡男の[[島津久照|久照]]に譲る。文化5年([[1808年]])、領内の仕置が不届きであるとの理由で、久照共々処分を受ける。処分の真の理由は、[[藩校]][[造士館]]に対抗して、毓英館を設立するなどの動きを、藩内の改革派に対抗するものと見られたため。文化6年(1809年)9月11日死去。享年58。
 
なお「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「[[伊地知季安]]著作史料集六」所収)では[[島津忠厚]]は久徴の子とされている。