「坂田三吉」の版間の差分
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生涯節:出生地について出典を提示せずに記述されていたため、出典(「阪田三吉記念室」(堺市立人権ふれあいセンター公式サイト)を提示して「堺県大鳥郡舳松村(現在の大阪府堺市堺区協和町)で出生。」と記載。 |
(1)定義文に「大阪府堺市(現)出身。」と記載(出典:谷川浩司『怒濤の関西将棋』)。詳細な出生地は、生涯節に出典を提示して記載。(2)人物節に「勉強を好まず、早期に学校を辞めたことにより、生涯を通じて読み書きができなかった。」と記載(出典:谷川浩司『怒濤の関西将棋』)。 |
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|作成日時=2012年12月22日
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'''阪田 三吉'''(さかた さんきち、[[1870年]][[7月1日]]([[明治]]3年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[1946年]]([[昭和]]21年)[[7月23日]])は、[[明治]]から[[昭和]]初期の[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。贈[[名人 (将棋)|名人]]・[[王将戦|王将]]。
== 生涯 ==
[[堺県]][[大鳥郡]][[舳松村]](現
[[1886年]](明治19年)ごろ、[[日本橋 (大阪市)|日本橋]]の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。
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== 人物 ==
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[[北条秀司]]原作による『[[王将 (戯曲)|王将]]』というタイトルの戯曲(三部構成)や映画、さらに歌のモデルになった。阪田は生前「わしが死んだらきっと芝居や活動写真にしよりまっせ」と言っていた。しかし、映画などでの阪田像は多分に誇張されたものであり、真実の阪田とはへだたりがあるという、阪田と実際に会った棋士たちの複数の証言がある。
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== 参考文献 ==
* [[岡本嗣郎]] 『9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝』 集英社、1997年。
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*{{Citation|和書|title=怒濤の関西将棋|year=2014|last=谷川|first=浩司|authorlink=谷川浩司|series=角川Oneテーマ21|edition=|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=}}
*[[中村浩]] 『棋神・阪田三吉』 講談社、1980年。
* [[内藤國雄]] 「坂田三吉」『大阪学講座 なにわを築いた人々』 大阪市・大阪都市協会、1992年。
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== 関連項目 ==
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