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[[1920年]]([[大正]]9年)[[原内閣]]の元で新設された[[大蔵省]][[参事官]]に任じられ、[[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]][[高橋是清]]の薫陶を受ける。以後、三土は高橋の側近として又は党内きっての[[財政]]通として活躍する事になる。
 
[[1921年]](大正10年)原敬首相の[[暗殺]]によって[[高橋内閣]]が成立すると内閣書記官長に抜擢される。その後、[[護憲三派]]による[[加藤高明内閣]]にて高橋が[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]となると[[次官]](1924年(大正13年)6月11日 - 1924年(大正13年)8月12日。後の組織改革によって初代[[農林省]][[政務次官]](1924年(大正13年)8月12日 - 1925年(大正14年)3月31日)に就任)となる。[[1927年]](昭和2年)[[昭和金融恐慌]]の際に成立した[[田中義一内閣]]では初め文部大臣となるが、大蔵大臣であった高橋が恐慌への対応を終えたとして大臣を辞する時に三土を後任に推薦したため、そのまま大蔵大臣に横滑りする。政友会が下野して[[立憲民政党]]に政権が移ると、[[口内閣]]・[[第2次若槻内閣]]で緊縮財政や金解禁政策を主導した大蔵大臣の[[井上準之助]]に対し、財政論争を行った。その後、政友会が政権復帰した[[犬養内閣]]では逓信大臣、挙国一致の[[斎藤内閣]]では鉄道大臣として入閣した。
 
ところが、[[1934年]](昭和9年)の[[帝人事件]]で斎藤内閣は崩壊し、三土自身も[[偽証罪]]容疑で[[逮捕]][[収監]]されてしまう。だが、帝人事件自体が[[検事総長]]・[[大審院院長]]を務め日本の[[司法]]を左右できるだけの実力を持った枢密院副議長[[平沼騏一郎]]の政友会に対する個人的怨恨から来たと言われており、後に「[[検察]][[ファッショ]]」と糾弾される事件(実際に公判中に行われた[[第19回衆議院議員総選挙]]では三土は同情票によって全国最高の得票を得て再選されている)であり、いざ[[公判]]が始まるとたちまち検察側の主張は崩されて[[1937年]](昭和12年)には「[[起訴]]そのものが不当」として三土らに[[無罪]][[判決]]が下された。