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[[215年]]、合肥の戦いで張遼の奇襲に、先遣部隊として徐盛が負傷を被って旗指し矛を失ったが、後続にいた賀斉と潘璋に救援されたという、旗指し矛を取り戻した。賀斉が中部部隊を率いて張遼を拒ぎ撃ち、張遼がすぐに引き揚げた。逍遥津退却で[[曹操]]軍の[[張遼]]の攻撃に遭い、賀斉が助太刀役を務めた、退却した孫権を船に迎え入れた<ref>『[[江表伝]]』</ref>。
 
[[216年]]、[[鄱陽県|鄱陽尤突]]の不服従民という者が曹操の印綬を受け反乱を起こし、陵陽・始安・涇もそれに同調すると、賀斉は[[陸遜]]と共に討伐し尤突ら数千人を斬って反乱を鎮圧した。これにより丹陽の三県も降参した。また、降伏者の中から8千人の精鋭を募り、軍団に加えた。この功績で安東将軍・山陰侯となった。
 
[[222年]]、[[魏 (三国)|魏]]が三方面から侵攻してきた時、合肥方面から侵攻してきた[[曹休]]を迎え討つため、[[呂範]]や徐盛が洞口に向かったが、天候の悪化で軍に大きな被害が出た。しかし賀斉は新市の防備を任されていたため、この被害を受けずに済んだ。呉軍が曹休の軍勢を撤退させることが出来たのは、無傷であった賀斉軍の存在が大きかった([[洞浦の戦い]])という。この功績で[[後将軍]]に昇進し、仮節を与えられ[[徐州]][[牧]]となった。