「仮名垣魯文」の版間の差分

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[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に[[花笠文京|花笠魯介文京]]の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの[[摺物]]「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の[[滝沢馬琴]]に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」ちう狂歌を贈られた。自作の執筆の他に、先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋や、当時の作家ではよくある売薬業も営み、牛肝煉薬黒牡丹(うしのきもねりやくくろぼたん)など何種類かの丸薬の販売を行った。
 
1855年に[[安政の大地震]]で生き埋めになりかけたが、[[三河屋鉄五郎]]という版元から地震にかかわる「安政見聞誌」の執筆を十両で持ちかけられ、渓斎英泉の弟子の[[景斎英寿|英寿]]が見て回った様子を魯文が書いて、原稿料を二人で折半した。当時の後援者には、榎本総助、高野酔桜軒、豪商の[[春廼屋幾久|勝田幾久]]、[[細木香以]](津藤香以山人)などがいた。同じ香以山人の取り巻きである、[[条野採菊]](山々亭有人)、[[河竹黙阿弥|河竹新七(黙阿弥)]]、[[瀬川如皐 (3代目)|瀬川如皐]]、[[河鍋暁斎]]、[[落合芳幾]]、其角堂永幾らとも親しくした。巻物の草双紙や滑稽本数十を著し、[[安政]]年間には名を為し、1860年([[万延]]元年)[[十返舎一九]]流の作品『滑稽富士詣』『荏土久里戯』は出世作となった。
 
筆名は初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていたが、1873年(明治6年)に仮名垣魯文とした。師の魯と文の字を取って「魯文」、「仮名垣」は、[[柳亭種彦]]の『正本製』三編、『当年積雪白標紙』の登場人物、赤本入道仮名垣による([[歌川豊国]]による入道の挿絵と魯文の顔とが似ていたため)。[[山々亭有人]]たちと[[三題噺]]のグループ「粋狂連」を結成し、作品でも[[落語]]から取ってきた笑いを使っている。