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『浅草海苔由来記』によれは、海中で海苔を生育させるための篊(ひび)の設置は、[[元禄]]・[[寛永]](1688年-)の頃とされる。
医師でもあり本草学者の[[本間游清]]が、海苔は外海より流れ来たのではなく、数十日の間、海潮に浸した篊(ひび)に生ずと『学鵜漫筆』に著していることから、江戸時代に詳細な生態が解明されていないが、海中に立てた篊から海苔が生育し、その海苔を採取することが行われていた。
設置されていた篊については、[[古川古松軒]]の『四神地名録』に「品川にてはよし竹を立て海苔生じ、大森にては青木を立てて海苔生ず」とみえあり海中に連立した江戸付近の養殖用の篊は、篠竹や雑木の枝が使用されており、沿岸設置場所の海流や水深などにより地域によの影響もあって、品川と大森では篊の素材が異なっていたようである
 
[[明治時代]]には、改良を加えた猟具や養殖増産に関する研究調査が進み、19世紀末に海苔の発育実験等が日本各地の水産試験場で実施されたことから、[[太平洋]]に面した東京沿岸付近と内海とされる[[瀬戸内海]]沿岸の広島付近の養殖法に変化がみられた。20世紀初頭には、台湾、朝鮮半島において、漁業振興と遭難者救護のための各漁業組合の設置とともに、日本国内の水産業者も移住し、東京沿岸付近で行われていたアサクサノリ(浅草海苔)の養殖並びに製造法を伝播した。