「金子光晴」の版間の差分

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*[[1972年]](昭和47年) 3月、『風流尸解記』で[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞する。
*[[1973年]](昭和48年) 4月、『天邪鬼』([[大和書房]])を刊行。5月、[[荻窪 (杉並区)|荻窪]]の[[シミズ画廊]]で金子光晴展を開く。7月、京都へ旅行。9月、詩集『花とあきビン』(青娥書房)、『愛と詩のものがたり』([[サンリオ出版]])。10月、『ねむれ巴里』(中央公論社)を刊行。
*[[1974年]](昭和49年) 4月、『人よ、寛かなれ』(青娥書房)、『金子光晴自選詩画集』([[五月書房]])。7月から雑誌『[[面白半分]]』の編集長を半年務める。11月、『西ひがし』(中央公論社)を刊行。解説『平凡社ギャラリー 18 [[渓斎英泉|英泉]]』([[平凡社]])を刊
*[[1975年]](昭和50年) 1月、『ほりだしもの』(大和書房)。2月より『'''金子光晴全集'''』が刊行開始(全15巻、中央公論社、1977年の1月まで)。4月、遺書をしたためる。『金子光晴(日本の詩)』(ぽるぷ出版)。6月30日午前11時30分、[[気管支喘息]]による急性[[心不全]]により[[武蔵野市]][[吉祥寺本町]]の自宅で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)96頁</ref>。7月5日、[[千日谷会堂]]にて告別式が行われる。
*[[1977年]](昭和52年) 6月29日、森三千代が死去。7月に『回想の詩人たち』(冬樹社)、8月『金子光晴下駄ばき対談』([[現代書館]])、詩集『塵芥』([[いんなあとりっぷ社]])、『私の詩論』(冬樹社)、9月、『鳥は巣に・六道』(角川書店)。11月、『樹懶』([[河出書房新社]])、『這えば立て』(大和書房)を刊行。
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一般的に反骨の文化人として知られ、戦争中も反戦の立場を取り息子をわざと病気に近い状態にして兵役を免れさせ国家への不服従を貫く{{要出典|date=2016年12月}}。他方で、櫻本富雄の『空白と責任』([[未来社]])であきらかにされているように、1937年盧溝橋事件の直後の10月には雑誌文芸で、「戦わねばならない 必然のために、戦わなければならない 信念のために 一そよぎの草も動員されねばならぬのだ」と詩を詠んだ。
 
戦後は、[[山川浩]]『[[京都守護職]]始末 旧[[会津藩]]老臣の手記』([[平凡社東洋文庫]]全2巻)を訳し、『日本人の悲劇』(新書判レグルス文庫 [[第三文明社]])、『絶望の精神史 体験した「明治百年」の悲惨と残酷』(初版 [[光文社]]カッパ・ブックス]])を出す事で著し、[[明治維新]]以の近代化路線へ批判を行っている。
 
===近年刊行===
*『平凡社ギャラリー 18 [[渓斎英泉|英泉]]』([[平凡社]] 1974年)
*『金子光晴詩集』(現代詩文庫1008:[[思潮社]] 1975年)、新書版
*河邨文一郎編 『金子光晴 画帖』(三樹書房 1981年)