「大川橋 (舞鶴市)」の版間の差分

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大川橋のはじまりは、[[1901年]]([[明治]]34年)に架設された藤津船橋であるといわれる。橋脚の代わりに舟を浮かべ、その上に床版として板を渡した[[舟橋]]といわれるものであるが、洪水によってこの橋はわずか6年で流失した<ref name="pamphlet" />。流失から2年後の[[1909年]](明治42年)には橋脚を有する本格的な木製の橋が架設され、板橋と呼称された<ref name="pamphlet" />。
 
[[太平洋戦争]]を挟み、戦後に制定された[[道路法]](昭和27年法律第180号)に基づいて現在の国道175号および国道178号が[[二級国道]]明石舞鶴線および舞鶴鳥取線として指定された[[1953年]]([[昭和]]28年)に開通したのが3代目にあたる大川橋である。全長180m、幅員6.5m<ref name="kk20100125" />で、[[アーチ橋]]の一種であるランガー桁を基本に、床版桁の吊材に斜材を置し、[[トラス橋|トラス]]状に組んだ<ref>[http://www.geocities.jp/kantentomaccha/bridge.html 橋のいろいろ] - 深谷探偵事務所(2012年9月20日閲覧)</ref>ものが3連あり、アーチ下を通行するものであったことから、3径間下路地式トラスドランガー橋<ref name="kk20100125" />という形式に分類される。
 
この3代目大川橋は、架橋の後に到来した[[モータリゼーション]]社会にも対応し、重要な幹線道路として利用されてきたが、交通量の増加に加え、架設された当時より車両が大型化したことによって[[大型自動車|大型車]]の離合に困難を来たし、渋滞が発生していた。また、通学路に指定されているにもかかわらず歩道が未整備かあっても狭いものであったことから、歩行者の安全確保の観点からも改良されることが課題となっていた。さらに、舞鶴港の[[舞鶴国際埠頭]](当時は和田埠頭の名称で計画)や[[京都縦貫自動車道]]、[[山陰近畿自動車道]]などの供用開始などによって交通量の増加が見込まれたが、設計時に想定されていた交通量をはるかに超えていたことで橋の老朽化が進行し、最新の設計で用いられる耐荷重の基準となる25[[トン]]に対応できないことから、橋の架け替えの実施が決定した<ref name="h20hyoka" />。