「武士彠」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
11行目:
[[永徽]]年間に士彠の次女の[[武則天|武照]]が[[皇后]]に上ると、并州都督・[[司徒]]の位を追贈され、周国公に追封された。[[咸亨]]年間、[[太尉]]・太子太師の位を加えられ、太原郡王に追封され、功臣の上に列した。武照が朝政をみるようになると、士彠は忠孝太皇と追尊され、崇先府が建てられて、属官が置かれ、五代にさかのぼって王位を追贈された。[[武則天#即位|武周]]が建てられると、[[洛陽|東都]]に武氏七廟が建てられ、帝に追冊された。[[先天 (唐)|先天]]年間、士彠の帝号が削られ、太原王とされ、武氏七廟も廃止された。
 
初め、士彠は相里氏を妻として、[[武元慶]]と[[武元爽]]の二男をもうけた。その後、楊夫人(栄国夫人、[[楊達 (隋)|楊達]]の娘)を後妻として、三女をもうけた。長女は[[賀蘭越石]]の夫人となり、韓国夫人に封ぜられた。次女の武照は[[高宗 (唐)|高宗]]の皇后となり、帝位に上った。三女は[[郭孝慎]]の夫人となった。
 
兄に武士棱・武士譲・武士逸がおり、兄の子として[[武惟良]][[武懐亮]][[武懐運]]らがいた。
 
== 伝記資料 ==