削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
4行目:
'''明治'''(めいじ)は、[[日本]]の[[元号]]の一つ。[[慶応]]の後、[[大正]]の前。<!--日本における最初の元号である-->[[大化]]以降244番目の元号。また、日本において[[一世一元の制]]による最初の元号である。
 
[[新暦]][[1868年]][[1月25日]]([[旧暦]][[慶応]]4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]/明治元年1月1日)から[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]までの期間を指し、[[明治天皇]]の在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に[[改元]]の[[詔|詔書]]が出されたのは新暦1868年[[10月23日]](旧暦慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])で、慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが'''明治時代'''(めいじじだい)である。また、[[江戸時代]]まで(最後の元号:[[慶応]]、最後の天皇:[[孝明天皇]])と異なり、[[日本近代史]]の始まりとされるこの時代から、元号と「〇〇時代」という[[日本史時代区分表|時代区分]]の呼称が同一となり、各時代の在位した[[天皇]]の[[追号]](「〇〇天皇」)に元号がそのまま用いられるようになった
 
== 改元 ==
10行目:
* [[1868年]][[10月23日]]([[慶応]]4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])- [[明治天皇]]の[[即位]]による[[改元]]。
** ただし、改元の[[詔|詔書]]には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]](1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。また、[[一世一元の詔]]も併せて出され、天皇在位中の改元は行わないものとした。
** 「元号247総覧」(著者:[[山本博文]][[東京大学]]史料編纂所教授)によると、[[松平春嶽]]に新元号の考案が委ねられ、いくつか複数の案を出し、最終的に明治天皇によるくじ引きで明治」がんだばれたとされる
* [[1912年]](明治45年)[[7月30日]]([[1873年]](明治6年)にグレゴリオ暦を施行)- 明治天皇の[[崩御]]と[[大正天皇]]の即位([[践祚]])により、[[大正]]と改元。同日施行され、大正元年7月30日となった。
 
16行目:
『[[易経]]』の「聖人南面而聴天下、嚮'''明'''而'''治'''」より。
 
「聖人南面して天下を聴き、''''''に嚮(むか)ひて''''''む」というこの言葉は、過去の改元の際に[[江戸時代]]だけで8回、計10回(「[[正長]]」「[[長享]]」「[[慶安]]」「[[承応]]」「[[天和 (日本)|天和]]」「[[正徳 (日本)|正徳]]」「[[元文]]」「[[嘉永]]」「[[文久]]」「[[元治]]」改元時<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2019020200439&g=soc 「明治」は11度目の正直=選から漏れた元号案、最多は40回]、時事ドットコム、2019年02月02日15時19分。</ref>)候補として勘案されているが、通算11度目にして採用された。[[岩倉具視]]が[[松平春嶽|松平慶永]]に命じ、[[半家_(公家)#菅原氏(6家)|菅原家]]から上がった佳なる勘文を[[籤]]にして、宮中[[賢所]]で天皇が自ら抽選した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/207 維新史 第5巻(維新史料編纂事務局)]</ref>。聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は''''''るい方向に向かって''''''まるという意味である<ref>[http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/07.html 「明治」の由来は何ですか?] 明治神宮 Q&A </ref>。
 
== 新暦の実施 ==
22行目:
[[1873年]](明治6年)より、[[和暦|日本の暦]]は[[改暦]]され、[[新暦]]に[[太陽暦]]([[グレゴリオ暦]])を採用した。従来の暦は[[太陰太陽暦]]に基づく[[天保暦]]で、以後、日本で単に[[旧暦]]と言えば天保暦を指す<ref group="注釈">厳密には、天保暦による日付と現在一般に「旧暦」として流布する日付は、わずかにずれる。詳しくは、[[旧暦#日本]]を参照。</ref>。
 
改暦は、具体的には、天保暦(旧暦)の明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]の翌日を、'''新暦の明治6年1月1日'''とすることで実施した。これにより、'''[[西暦]]'''(グレゴリオ暦)'''と[[和暦]]の日付が一致'''することとなった<ref group="注釈">ただし、[[西暦]]についても、[[ユリウス暦]]からグレゴリオ暦への移行は国ごとに異なっていることを念頭に置く必要がある。例えば、[[ヨーロッパ]]でも、[[ロシア]][[グレゴリオ暦]]を実施したのは[[1918年]](大正7年)[[2月14日]]、同じく[[ギリシャ]][[1923年]](大正12年)[[3月1日]]など、[[アジア]]の日本よりも遅い。</ref>。
{|class=wikitable
|+日付対応表
28行目:
!colspan="2"|[[和暦]]!!colspan="2"|[[西暦]]!!rowspan="2"|[[ユリウス通日]]
|-
![[天保暦]]<br />([[旧暦]])!!現行暦<ref group="注釈">法令上、日本の現行暦はグレゴリオ暦そのものではなく、[[神武天皇即位紀元]](皇紀)を元にした暦である([[1898年]]「[[wikisource:ja:閏年ニ關スル件|閏年ニ關スル件]]明治31年勅令第90号))。もっとも、グレゴリオ暦の特長である[[閏年]]の計算は、神武天皇即位紀元年から660を減じた年数(グレゴリオ暦の年数に等しい)を元に行う。そのため、日本の現行暦はグレゴリオ暦と実質的に同じ暦となる。</ref><br />([[新暦]])!![[ユリウス暦]]<br />(旧暦)!![[グレゴリオ暦]]<br />(新暦)
|-
|align="center"|明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]||align="center"| なし
40行目:
== 明治時代 ==
[[画像:Meiji Emperor.jpg|thumb|200px|[[明治天皇]]]]
明治天皇が即位し、新政府は[[天皇]]を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して[[江戸]]を[[東京]]と改め、天皇が東京に[[行幸]]し、明治2年(1869年)に政府機能が[[京都]](現在の[[京都府]])から[[東京]](現在の[[東京都]])に移された('''[[東京奠都]]''')。この明治天皇の治世が'''明治時代'''(めいじじだい)と呼ばれている。明治政府の樹立に大きな役割を果たした[[薩長土肥]]四藩(廃藩置県後現在の、[[鹿児島県]]・[[山口県]]・[[高知県]]・[[佐賀県]]、[[長崎県]]の一部)は新政府でも強大な権力を握った。なお、[[幕末]]には薩長と共に[[尊王攘夷]]運動を主導してきた[[水戸藩]]は「[[天狗党]]」と「[[諸生党]]」の藩内抗争で人材が失われ、明治新政府ではめぼしい人材は皆無となった。
 
[[尊皇思想]]に基づき、天皇は[[親政]]を行い人民を直接統治するとした。しかし、[[1890年]](明治23年)に[[大日本帝国憲法]](明治憲法)が施行されるまでは、明治天皇は青年期であり、憲政下となっても[[立憲君主制]]国家の成立により、三職制・[[太政官]]制や[[内閣官制]]の導入などで、天皇以外にも[[薩摩藩]]や[[長州藩]]の出身者が政治の実権を握っていた([[藩閥政治]])。明治改元の時には、[[明]]朝中国を模倣して[[一世一元の制]]を定め、天皇の名(厳密には[[追号]])として[[元号]]としてを用い、それまでの[[陰陽五行思想]]的改元を廃止した。
 
この明治時代は、欧米[[列強]]の[[植民地]]化を免れるために[[近代化]]を推進した時代であり、[[世界史]]的に見れば、日本の'''[[産業革命]]時代'''である。西洋化と[[近代化]]が[[幕末]]から始まって明治年間で達成されたことから、「'''幕末・明治'''」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、[[不平等条約]]の締結([[1854年]](安政元年))から完全撤廃([[1911年]](明治44年))までの時代とほぼ一致する。[[中央集権]]的な[[王政復古]]の過程から「'''王政維新'''」ともいわれる。また、[[1870年代]](明治初期)は[[文明開化]]を略し「'''開化期'''」とも呼ばれている。
69行目:
[[画像:武州六郷船渡図 Bushu Rokugo funawatashi no zu.jpg|thumb|right|230px|明治天皇の東京行幸]]
[[画像:Magokoro10-1-4.jpg|thumb|right|230px|廃藩置県]]
人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には[[年号]]を'''明治'''」(読み:めいじ)と改めて、'''天皇一代の間一年号'''とする「'''[[一世一元の制]]'''」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、[[東征大総督府]]軍監・[[江藤新平]]は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と[[岩倉具視]]に建言。これに前[[内大臣]]・[[久我建通]]ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、[[大久保利通]]が「'''[[大坂遷都論]]'''」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、[[大坂]]に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 134ページ</ref>。これに、京都市民や[[神道家]]が反発し、[[伊勢神宮]]祠官・[[山田大路陸奥守親彦]]が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は[[東京]]と改称され、[[鎮将府]]、[[東京府]]設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の[[三条実美]]が[[駿河]]以東の13ヶ国を管轄し、[[京都]]と[[東京]]に2つの政府が並立する形となった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 142ページ</ref>。
 
江戸の東京への改称後、[[即位の礼#明治天皇の即位の礼・大嘗祭|8月27日に即位式]]を挙げた[[明治天皇]]が[[京都]]から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を[[皇居]]とし、東京城と改称した。天皇は12月8日に、東京を発って京都に帰ったが、同年11月、[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」<ref group="注釈">藩が持っているものを全部朝廷に返し、それをうまく利用して新しい国家作りに役立てて貰いたい</ref>という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた<ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 373ページ</ref>。12月22日京都[[還幸]](翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時'''御一新'''と呼ばれた。<ref group="注釈">1869年(明治2年)春には、議定は16人、参与は14人に増加したが後に整理が行われた。当時の狂歌に「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」と謳われ、非常に惨憺たる調子で明治政府は始まった</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 370-371ページ</ref>
79行目:
1870年(明治3年)9月に政府は「[[藩制]]」を公布。諸藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、[[藩債]]、[[藩札]]の整理を命じた。[[11月29日]]には、全国諸藩の注視を集め、藩地に帰郷した[[島津久光]]と藩政改革を通して[[薩摩藩]]の軍備強化に努め、全国から集結した[[士族]]約1万2000人の兵士大軍団を束ね、政府への無言の威圧となっていた薩摩藩士・[[西郷隆盛]]を説得するため、[[岩倉具視]]を勅使、随員として[[大久保利通]]と[[木戸孝允]]が島津久光と西郷隆盛の上京を求めて鹿児島に向かい、西郷隆盛の受諾を得て政権を安定させた<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 172ページ</ref>。
 
1871年(明治4年)7月にまず[[薩長土]]の3藩から[[御親兵]]を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に'''[[廃藩置県]]'''を断行した。全国の261藩は廃止され、3[[府]]302[[県]]に変わり、日本は'''中央集権的統一国家'''となった。[[藩知事]]と[[士族]]の[[禄]]は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、[[大名]]・[[公家]]を[[華族]]とする華族制度([[日本国憲法]]が施行されるまで存在した、西洋式に倣った日本の貴族制度)の創設と、[[武士]]身分を[[士族]]として、農工商民([[百姓]]・[[町人]])などを[[平民]]とし、[[日本人]]([[大和民族]])は皆「[[国民]]」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、[[日本国民]]全員に[[苗字]]の公称を認めた[[士農工商|四民(士農工商)平等]]政策を取った。[[戸籍法]]を制定し、華族・士族の[[散髪]]、[[脱刀]]並びに華士族平民間[[通婚]]を自由にし、[[田畑]]勝手作りを認め、[[府県官制]]制定を行い華士族の農工商従事を許可した。なおこれらとは区別して、[[天皇]]と血縁関係のある[[皇族]]([[皇室]]構成員)の地位もまた定められた。[[1871年]](明治4年)には、いわゆる[[解放令]]によってこれまで[[穢多|えた]]、[[非人|ひにん]]とされていた[[賎民]]の人々も平民に編入された<ref group="注釈">一方、[[家族制度]]については、それまでの武士階級の慣習に則り、[[1876年]](明治9年)に「婦女は結婚してもなお所生の氏(婚姻前の氏)を用いること」、すなわち[[夫婦別姓]]が原則とされるなど、現代とは異なる。夫婦同氏の原則に移行したのは[[1898年]](明治31年)に明治[[民法]]が制定されてからである。</ref>。ただし、その後も[[部落問題]]として余韻は残したままとなった
 
=== 明治国家の形成 ===
[[1869年]](明治2年)に、[[律令制度]]の行政機構を復活させ、役所機構を整備して[[宮内省]]・[[民部省]]・[[大蔵省]]・[[刑部省]]・[[兵部省]]・[[外務省]]の六省を設置したが、律令体制時代に存在した[[中務省]]・[[式部省]]・[[治部省]]の三省は復活設置されなかった。しかし、[[戸籍]]、[[土木]]、[[租税]]、[[駅逓]]、[[通商]]、[[鉱山]]を管轄する[[民部省]]と[[出納]]、[[秩禄]]、[[造幣]]、[[営繕]]を管轄する[[大蔵省]]の民蔵両省の[[官吏]]は、[[財政]]及び[[貿易]]問題で[[外国人]]と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、[[1870年]](明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 168ページ</ref>。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、[[官僚]]社会に強固な勢力を築き上げた。
 
軍事上の改革では[[民部省]]大輔兼[[軍務官]]副知事の[[大村益次郎]](長州藩士)が「農民を募り親兵」とする[[国民皆兵]]による政府軍を作る計画を進め、[[1873年]](明治6年)1月10日、[[陸軍卿]][[山県有朋]]を中心に[[徴兵令]]を公布し身分に関わり無く[[満年齢|満]]20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、[[徴兵制度]]の例外として[[戸主]]は徴兵を免除され、主として[[戸主]]以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、[[血税一揆]]が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)[[第二次世界大戦]]敗戦まで72年間、日本の男性たちの生活を支配した。また、当然ながら女性たちの生活も支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった<ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 238ページ</ref>。治安面では[[1874年]](明治7年)東京に[[警視庁 (内務省)|警視庁]]を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、[[1876年]](明治9年)[[金禄公債]]を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した([[秩禄処分]])。これにより[[士族]]の地位は著しく下がった。
 
外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ[[不平等条約]]改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、[[岩倉具視]]を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この[[岩倉使節団]]には[[伊藤博文]]・[[山口尚芳]]ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった[[不平等条約]]の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ[[近代化#日本の近代化|日本の近代化]]を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため[[李氏朝鮮]]に外交使節を送ったが李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、[[大院君]]政府は何の返事もしてこなかった。次いで、[[釜山]]にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が起こった。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「[[征韓論]]」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った<ref group="注釈">征韓論はこの時期に突然起こったのではなく幕末からあった。学者や政治家では国防論の元祖[[林子平]]、[[会沢正志斎]]、吉田松陰、橋本左内、藤田東湖なども大いに関心をもっていた。そして、幕末の志士といわれる人たちの共通の課題であった。だから大君院国家に厳重抗議し、いざとなったら叩き潰すくらいの覚悟を持たなくてはならないという共通意識が前々から定着しつつあった。そのような考えを踏まえて[[西郷隆盛]]は、自分が行って厳重抗議してこよう。それでも言うこと聞かないなら戦いも辞さないという強硬論を唱えた</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 414-428ページ</ref>。そこで、政府は8月17日の閣議で[[西郷隆盛]]の朝鮮派遣使節任命を決めた。
[[画像:Seikanron2.jpg|thumb|300px|征韓議論図
-----
98行目:
1876年(明治9年)7月28日には新政府の費用を作り出すため「[[地租改正]]」条例を公布し、[[農地]]の値段を定めて豊作・凶作に関係なく[[地租]]を[[地価]]の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせることにした。[[地主]]は土地所有を法的に認められるようになった。しかし地主と[[小作人]]の関係は変わらず、小作人はこれまで通り小作料を現物で地主に納めさせた。自作と小作農は負担がそれまでより軽くならないで苦しい立場に置かれることになった。地主は他の農民の土地を買い、それらの土地をお金に換えて資産を増やしていった。そして一部は土地を処分して資本家に変わっていった。やがて土地を耕すことはすべて小作人に任せ、お金だけ受け取って都市部で暮らす不在地主が増えていった<ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 237-238ページ</ref>。徴兵令に対する不満と地租改正に反対して百姓一揆がしばしば起こり、1876年(明治9年)に[[三重県]]で発生した[[伊勢暴動]](東海大一揆)、茨城県などの[[地租改正反対一揆]]などを受けて翌年地租率を2.5%に引き下げざるを得なかった。その結果、[[地租]]を納める[[農民]]の負担は江戸時代のおおよそ20%減ることになった。
 
文化面では1872年(明治5年)11月に[[太陽暦]]を採用、[[文明開化]]の風潮が高まり、[[福澤諭吉]]・[[西周 (啓蒙家)|西周]]・[[森有礼]]・[[中村正直]]らが'''[[明六社]]'''を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、[[中江兆民]]ら新しい思想を説く[[啓蒙思想]]家も現れた。[[印刷]]技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「[[横浜毎日新聞]]」を始め[[新聞]]が次々と創刊された。全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年(明治5年)「[[学制]]」を公布して全国に学校が設立された。新政府では[[寺島宗則]]・[[神田孝平]]・[[柳川春三]]といった学者を招聘して運営に当たらせた。教育機関の整備では[[大学寮]]をモデルにした「学舎制」案を[[玉松操]]・[[平田鐵胤]]・[[矢野玄道]]らに命じて起草させた。[[宗教]]の面では[[神道]]の国民教化を図ろうとして[[神仏分離令]]を出した。これを受け、[[日本の仏教]]に根付いていた[[寺請制度]]に不満を持っていた者も加わり、[[廃仏毀釈]]が行われる事態となる。[[1870年]](明治3年)[[大経宣布]]を行い祝祭日を制定した。1873年(明治6年)には天皇の誕生日を[[天長節]](現在の[[天皇誕生日]])、[[神武天皇]]が即位した日を[[紀元節]]とした。1873年(明治6年)に[[キリスト教]]を解禁。後の大日本帝国憲法で定められた[[政教分離原則|政教分離]]という制度的要請から、[[国家神道]]([[神社非宗教論]])に基づく宗教行政に転換していった。
 
明治新政府の近代化のための変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視していた点も多かった。特に、[[廃藩置県]]と[[徴兵令]]は士族の武力独占を破り、[[御親兵]]は[[近衛兵]]と改称され、中央集権を企図した地方行政制度である[[大区小区制]]は、従来の地方自治を無視して中央の命令の伝達と施行しかしない機関を設けたため極めて不評で、地方自治をある程度尊重した[[郡区町村編制法|郡区町村制]]に短期間で改められている。新政府の枢要な地位はほとんど[[薩長土肥]]の[[藩閥]]人物で構成されていたため全国の[[士族]]は特権を奪われ、経済的にも行き詰った。政府に対する士族の不満が高まった結果、[[民撰議院設立建白書]]を発端に[[士族反乱]]・[[自由民権運動]]が起こり、ついには1874年(明治7年)に[[岩倉具視]]暗殺未遂事件([[喰違の変]])が勃発した。
138行目:
[[1878年]](明治11年)に[[外務卿]]・[[寺島宗則]]の下で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との間で税権回復の交渉が成立したが、[[イギリス]]などの反対により新しい条約は発効しなかった。後を継いだ[[外務卿]]・[[井上馨]]は[[欧化政策]]を取り、風俗や生活様式を[[西洋化]]して交渉を有利に運ぼうとした。[[1883年]](明治16年)に[[日比谷]]に建てられた「[[鹿鳴館]]」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の[[舞踏会]]がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放([[内地雑居]])するかわりに税権の一部を回復し、[[領事裁判権|領事裁判制度]]を撤廃するというものであったが、[[国権]]を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、[[1887年]](明治20年)交渉は中止され、井上は辞職した。
 
これに続いて、[[1889年]](明治22年)大隈重信外相がアメリカ・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[ロシア帝国|ロシア]]との間に新条約を調印したが、[[大審院]](現在の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に相当)に限り外国人[[裁判官]]の任用をていたので、『[[日本 (新聞)|新聞日本]]』を基盤に持つ[[東邦協会]]メンバーを皮切りに[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]を率いる保守派の[[品川弥二郎]]や[[鳥尾小弥太]]、民権派の[[星亨]]を中心として再び国内に反対運動が起きた。大隈は[[玄洋社]]の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も[[青木周蔵]]外相の交渉が[[1891年]](明治24年)に訪日したロシア帝国皇太子(当時、後の[[ニコライ2世]]皇帝)が滋賀・[[大津市|大津]]で警護の[[日本の警察官|警察官]]に襲われて負傷([[大津事件]])したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。
 
その後、イギリスは[[東アジア]]におけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。[[1894年]](明治27年)に[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[陸奥宗光]]は駐英公使[[青木周蔵]]に交渉を進めさせ、[[イギリス]]との間で[[領事裁判権]]の撤廃と[[関税自主権]]の一部回復を内容とした「[[日英通商航海条約]]」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。
 
=== 大日本帝国憲法 ===
149行目:
:[[伊藤博文]]は[[井上毅]]、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]、[[ヘルマン・ロエスレル]]らと憲法制定の準備を開始し、1888年(明治21年)[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置した。そして、1889年(明治22年)[[黒田清隆]]内閣の時に君主権が強い[[プロイセン王国|プロイセン]]憲法を模倣した[[大日本帝国憲法]]が明治天皇から臣下に授ける形で制定された。
;大日本帝国憲法の内容
:同憲法は[[天皇]][[大日本帝国憲法第3条|第3条]]で神聖不可侵と規定し、[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]で統治権を総攬する[[元首]]と規定した。つまり形式上は天皇が権力の総元締ということになった。
:三権に関しては以下の通りである。第1に[[立法]]権であるが天皇は第5条において[[帝国議会]]の協賛を以って行使すると規定された。天皇の立法権は概ね法律の裁可が中心で、またその裁可には国務大臣の[[連署・副署|副署]]が必要とされた。つまり、大臣の副署を経てから天皇が裁可し法案が成立する、という形式である。また、帝国議会は[[選挙]]で選ばれる国会議員から成る[[衆議院]](下院)と[[華族]]や[[皇族]]などから成る[[貴族院 (日本)|貴族院]](上院)[[二院制|二院]]で構成された。第2に[[行政]]権であるが、後の[[日本国憲法]]と異なり[[議院内閣制]]に基づく連帯責任ではなく、第55条で各国務大臣は天皇を輔弼し個別に責任を負うものであった。第3に[[司法権]]であるが、第57条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。
:この憲法の問題は主なものに以下の2つが挙げられる。第1は第11条に規定されている「天皇は陸海軍([[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]])を統帥する」という規定であった。[[陸軍省]]・[[海軍省]]を有する内閣や帝国議会は軍部(陸軍:[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、海軍:[[軍令部]])に対して直接関与できなかった。第2は第21条で規定された「法律の範囲内において自由である」という[[臣民]](国民)の権利であった。
:また、[[黒田清隆]]首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢」を示し、議会と対立した。
:その後1889年(明治22年)の[[大日本帝国憲法]]公布に伴い[[衆議院]][[議員]][[選挙]]法が公布され、直接国税15円以上を納税した25歳以上の男子のみに[[選挙権]]を与えた制限選挙を実施し、1890年(明治23年)に最初の第1回[[帝国議会]]が開会された。
;発布
:憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されると共に国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれた。不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めた。
:[[日本法]]において[[民法]][[商法]]などの諸法典も制定された。民法はフランスの[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]の助言を受け、[[フランス民法典]]と日本の[[慣習法]]を折衷したものであったが、特に家族制度についての規定が[[家父長制]]に基づく日本の美風に背くとして非難が起こり実施が一時延期された。
 
=== 日清戦争 ===
190行目:
[[1905年]](明治38年)、[[韓国統監府]]初代統監には[[伊藤博文]]が任命されたが、[[1908年]](明治41年)に辞任した。また、[[1906年]](明治39年)の[[ポーツマス条約]]で獲得した[[遼東半島]]南部([[関東州]])および[[長春]]以南の[[東清鉄道]]に対し、それぞれ[[関東都督府]]、[[南満州鉄道株式会社]](満鉄)が設置された。その後[[1909年]](明治42年)7月、[[第2次桂内閣]]が[[韓国併合]]を閣議決定、[[10月26日]]に伊藤は[[ロシア帝国|ロシア]]との会談を行うため渡満したが、[[ハルビン]]に到着した際に[[大韓帝国]]の独立運動家[[安重根]]から撃たれて暗殺された。[[1910年]](明治43年)には[[日韓併合条約]]を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ[[帝国主義]]国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。
 
[[1911年]](明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい[[日米通商航海条約]]を締結、イギリス、ドイツ、フランス及びイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣[[小村壽太郎|小村寿太郎]]は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、かつて江戸幕府の政権時に西洋列強と結んだ不平等条約を対等なもの国家間条約に改善する[[条約改正]]の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。[[嘉永]]年間以来の[[黒船]]の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された<ref group="注釈">政治・軍事面では西洋と表面上対等になっても、社会的・文化的な近代化が課題として残された。また、表面的かつ性急な西欧列強の模倣に走った明治日本を冷ややかにとらえ、日本の末路に悲観的な見解を示す[[夏目漱石]]のような知識人も少数ながら存在した。</ref>。
 
その後、[[第一次世界大戦]]の講和により完成した[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ体制]]の世界で、日本は[[1920年]](大正9年)に設立された[[国際連盟]]に[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]として参加、明治維新から約50年という速さで列強国の一つに数えられることになった。