「アルフォンソ12世 (スペイン王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[1868年]]の{{仮リンク|スペイン1868年革命|label=革命|es|Revolución de 1868}}により、イサベル女王と家族はスペインを追われ、[[パリ]]へ移った。アルフォンソは[[ウィーン]]で教育を受けた。[[1870年]]6月、パリへ呼ばれたアルフォンソは、引退表明した母から後継指名を受けた。その後、アルフォンソは[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]で軍人の訓練を受けた。[[1874年]]、支持者らの支援を得て、スペイン王位奪取を宣言([[スペイン王政復古]])。その年の終わりに、陸軍元帥セラノは[[マドリード]]を離れて、北部連隊を指揮して[[カルリスタ]]と戦闘を開始した。陸軍[[准将]][[マルティネス・カンポス]]は次々と南部を攻略し、王の名において[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]に入城した。アルフォンソは、[[バルセロナ]]、バレンシアを経てマドリードにわずか数日で到達、自由憲法の受諾を宣言した。アルフォンソはカルリスタたちに強力な宣伝活動を行い、大叔父[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|モリナ伯ドン・カルロス]]とその後継者たちへの支持は失速していった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Alphonso}}</ref>。
 
アルフォンソは君主として統治を学ぶ機会が少なく、実際の在位期間も短かったが、[[亡命]]の経験が天性の資質と正当な判断力を磨いた。慈悲深く、思いやりのあるアルフォンソの心根は、大多数の国民の支持を勝ち取った。[[1885年]]、アルフォンソは恐れる様子もなく、[[コレラ]]に見舞われた地域、地震で崩壊した都市を訪問した。また、アルフォンソは特定の政党の手先にならないよう自身を律した<ref name="EB1911" />。