「三好実休」の版間の差分

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| 別名 = 物外軒
| 戒名 = 實休居士<br/>妙國院殿光徳實休大居士
| 墓所 = [[妙泉寺 (和泉市)|妙泉寺]]、[[妙国寺]]、[[見性寺 (徳島県藍住町)|見性寺]]
| 官位 = [[豊前国#国司|豊前守]]
| 幕府 = [[室町幕府]]
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天文13年([[1544年]])、兄に従って京都に入り、天文15年([[1546年]])までに[[豊前守]]を名乗るようになった<ref>{{Cite web |url=https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/51/pub_komonjo-iewake-10-17.html |author=[[高橋敏子]]|title= 東京大学史料編纂所報第51号(2015年)大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十七|accessdate=2017-06-04 }}</ref>。細川晴元と対立する[[細川氏綱]]、[[畠山政国]]、[[遊佐長教]]らに対抗するため、天文15年秋に阿波の軍勢を渡海させ、天文16年([[1547年]])の[[舎利寺の戦い]]で大勝した。その後も兄・長慶の勢力拡大に従って[[伊予国|伊予]]・[[讃岐国|讃岐]]・[[和泉国|和泉]]など各地に転戦している。また、弟の十河一存が和泉[[岸和田城]]主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。
 
天文22年([[1553年]])6月に細川持隆を[[見性寺 (徳島県藍住町)|見性寺]]で自害に追い込み、その子・[[細川真之]]を阿波細川家の当主として擁立した。この時、持隆派であった[[久米義広]]、[[佐野丹波]]らが反抗したが、実休はこれも打ち破り([[鑓場の戦い]])、阿波細川家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を[[三好政権]]の統制下においた。実休は、持隆とその一党を、兄・長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。しかし、実休を憎む者、妬む者、また細川真之に接近する者が少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった<ref>長江・131頁</ref>。
 
天文23年([[1554年]])から天文24年([[1555年]])の[[播磨国|播磨]]遠征、永禄元年([[1558年]])の[[北白川の戦い]]では四国勢を率いて参戦。永禄3年([[1560年]])に兄と共に[[河内国|河内]]守護・[[畠山高政]]や[[安見宗房]]らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。しかし永禄5年(1562年)、[[紀伊国]]の[[根来衆]]の援助を得た畠山高政の反撃を受け、[[久米田の戦い]]で戦死した。享年36<ref>享年37とも(『[[妙国寺過去帳]]』『[[妙泉寺墓碑銘]]』)『三好長慶』〈人物叢書〉207頁。</ref>。また、[[寵愛]]の[[小姓]]や[[近習]]らも悉く討ち死にしたという。跡を子の三好長治が継いだ。