「無神論」の版間の差分

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より中立的な定義として、神またはその他の名を持つ、人間を超えた超自然的な存在を考えない立場のことを無神論とするという意見もある。この場合、既存の宗教はほぼすべて有神論に分類され、純粋な唯物論や機械論が無神論となる。
 
[[共産主義]]国家、[[マルクス・レーニン主義]]政権国家の多くでは、虐殺や宗教施設([[聖堂]]・[[モスク]]・[[寺院]]など)の破壊を含む手段で宗教弾圧が行われ、キリスト教徒やイスラム教徒を始めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。特に[[アルバニア人民共和国]]は「世界初の[[国家無神論|無神国家]]」を自称し<ref>{{cite web |url=https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-2007-04-18-0704170802-story.html |title=Albania finds religion after decades of atheism |date=2007-04-18 |website=[[シカゴ・トリビューン]] |access-date=2019-05-26}}</ref>、無神論を狂信して事実上の[[国教]]のように政治と一体化させ、全ての宗教・信仰を完全に否定かつ禁止した。{{仮リンク|マルクス・レーニン主義無神論|en|Marxist–Leninist atheism}}を参照。
 
== 語源 ==
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フランスの思想家[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]は無神論、[[唯物論]]、[[運命論]]を唱えた。ドルバックは、[[ヴォルテール]]流の[[理神論]]や[[汎神論]]ではなく、最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人である。おそらくドルバックに先行するのは、{{仮リンク|ジャン・メリエ|en|Jean Meslier}}ただ一人である。ドルバックの自然観の根底には、人間は[[理性]]的な存在であるという確信がある。全ての宗教的な原理から道徳を切り離し、自然的原理だけに道徳を還元するというのが彼の目論見であった。主著『自然の体系』では、あらゆる宗教的観念や[[理神論]]的観念を排して、無神論と唯物論と運命論(科学的決定論)を説く。しかし、しばしば矛盾とも思える様々な主張の寄せ集まりであると批判されてもいる。
 
[[19世紀]]後半のドイツは[[合理主義]]及び[[自由思想]]の影響を受けて無神論の卓越性が増し、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]や[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]、[[カール・マルクス|マルクス]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]など多くの顕著な哲学者は神の存在を否定した<ref>[http://books.google.com/books?hl=en&lr=&id=BKz2FcDrFy0C&oi=fnd&pg=PA1&dq=nietzsche+schopenhauer+marx+feuerbach&ots=Uj5_B0kDbS&sig=1lXbokGVRbwxqAIbmcOwL033N88 Subjectivity and Irreligion]</ref>。特にフォイエルバッハの『キリスト教の本質』(1841年)はマルクス、[[ダーフィト・シュトラウス|シュトラウス]]、ニーチェら若い哲学者に熱烈に歓迎され、キリスト教は前代未聞の激しい攻撃に晒された。唯物論者でもあるマルクスは「宗教は民衆の阿片である」とし、またニーチェはユダヤ教―キリスト教の精神構造を「ルサンチマン」にあると『道徳の系譜』で論じた。またラッセルは、宗教や信仰を死や神秘的なものへの恐怖にあるとした<ref>「自由人の信仰」</ref>。
 
無神論の一形態に[[人間中心主義]] (anthropocentric) がある。人間中心主義は倫理及び価値の源として人間性を支持し、個人が神や宗教に依存しないで道徳的な問題を解決することを主張する。代表的な論者にマルクス、ニーチェ、[[ジークムント・フロイト|フロイト]]、[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]などがいる。[[朝鮮民主主義人民共和国]]および[[朝鮮労働党]]が主張する[[チュチェ思想]]も、この一種といえる。
 
== 主張・発言 ==
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* [[反宗教主義]]
* [[懐疑主義]]
* [[マルクス主義国家無神論]]
* [[無神論者バスキャンペーン]]
* [[戦闘的無神論者同盟]]