「萬代橋」の版間の差分

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新潟日日新聞(現在の[[新潟日報社]]の前身の1つ)社長の内山信太郎は[[1883年]]、県に1度目の架橋計画を提出したが受理されず、翌[[1884年]]に県が信濃川の整備計画を決定した後に、内山の計画はようやく受理された。内山は建設費用を捻出するため奔走し、第四国立銀行(現在の[[第四銀行]])頭取の八木朋直に資金援助を依頼することになった。八木は一度は援助を断ったものの、[[北蒲原郡]]葛塚町(のちの[[豊栄市]]、現在の新潟市[[北区 (新潟市)|北区]])の豪商が出資に同意したことから援助を決断した。
 
橋の設計は[[内務省 (日本)|内務省]]土木局の内務三等技師の古市公威らが手掛け、工事の棟梁は[[長岡市|長岡]]の猪俣五郎吉が務めた。[[1886年]]2月に県から着工許可が下りて工事に着手し、約9か月を掛けて築造され、同年[[11月4日]]{{Refnest|group="注"|当初、竣工式は前日[[11月3日]]に行う予定だったが、雨天のため翌4日に順延された。}}に木造橋が開通した。工事費は当初の計画では約24,700[[円 (通貨)|円]]を見込んでいたが、欄干や敷板にヒバ材を使用したことなどから、約33,800円{{Refnest|group="注"|架橋費自体は30,644円であったが、工事中の金利や上棟式、竣工式などに3,140円程要した為、総計は3,3785円であった。}}<ref>{{Cite book|和書|author=新潟市 |title=新潟歴史双書9 萬代橋と新潟 |publisher=新潟市 |year=2005 |page=15 |isbn=}}</ref>。}}を要した。当時の流作場新田(現在の中央区弁天・万代付近)の地価が1坪10銭、大工の手間賃は1日16銭で、萬代橋の工事費は莫大な額であった。
 
橋梁部は現在より約30m上流側に架けられ、橋長430間(約782m)、幅員4間(約7.3m)を有した。前述のように当時は川幅が広かったため、橋長は現在の2.5倍以上で、現在の礎町通一ノ町付近から流作場五差路付近にまで及ぶ長大な橋梁であった。また、日本国内の橋梁としても当時最長であった。