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==歴史==
古くは[[源平盛衰記]]に登場する。[[犀川]]河口に位置し、[[日本海]]に面した湊として、宮腰津は[[大野川 (石川県)|大野川]]河口の大野湊と合わせて「[[大野荘 (加賀国)|大野荘]]湊」と総称された。ともに京都臨川寺領大野荘に属した。これら二つの湊は地理的に近接していたが別個の集落をなしていた。[[鎌倉]]末期の[[地頭]]は[[北条得宗家]]であった([[普正寺]]を参照のこと)。中世以降は大野庄湊というと実質的に宮腰津を指す事が多かった。伏見川、安原川の内陸水運と結び付き、中世の加賀の国の交通の要所であり、また日本海沿岸や機内の諸地域とを結ぶ遠隔地交易においても流通拠点としての役割を果たした。宮腰や[[大野町 (石川県)|大野]]は、[[白山]]本宮の[[水引神人]]の身分を持つ紺掻の分布地に含まれる(『[[三宮古記]]』)。白山本宮の有力末社[[佐那武社]](現[[大野湊神社]])は宮腰[[佐良嶽]]にあったと伝承する。元和二年(1616年)、[[加賀藩]]が年貢米を販売するために大津へ米を回送する大津上米(のぼりまい)が制度化された。米は領内から宮腰にいったん集積され、敦賀を経て琵琶湖経由で大津へ運搬された。この経路は、[[西廻り航路]]による大阪上米が17世紀後半に本格化するにしたがって衰退した。[[天正 (日本)|天正]] 14 年([[1586年]])、[[前田利家]]は[[大野湊神社]]に田地二町と氏子十五ヶ村を寄進し、その中で宮腰村は筆頭に挙げられた。宮腰の郊外には御舟小屋という藩主の御召船の収納施設があり、宮腰町奉行のもとで御船手足軽と呼ばれる人たちが管理や訓練を行っていた。近世初頭以来、宮腰は船の入津をめぐって隣村の大野村・粟ヶ崎村としばしば争った。原因は、宮腰の陸運に対し、大野側に入津したほうが舟運を通じて直に金沢城下へ物資を運搬できたため、次第に宮腰への入津が減少したことにあった。慶応二年(1866年)、藩は宮腰町と大野村の対立を融和するため、両所を金石町として合併させた。金石という地名は「交情ノ堅ヲ金石ノ交ト曰」とあるように、宮腰町と大野村の和解を期待したものであった。この合併により、宮腰の地名は消滅した<ref>石川郡誌 石川教育教会 明治44年</ref>。
 
==文献における記載==