「レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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レオポルト治世のオーストリア([[ハプスブルク帝国]])は東西からの脅威にさらされていた。[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エカチェリーナ2世]]はオーストリアとプロイセンに革命中のフランスと戦争をさせるよう仕向け、その間に[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]と[[オスマン帝国]]を侵略しようとし、フランス革命が飛び火する恐れもあった。これに対し、レオポルトはイギリスとの同盟交渉でロシアとフランスを牽制し、イギリスに対しては「同盟を拒否された場合はフランスに[[南ネーデルラント]]を割譲する」と足元を見られないよう脅した。イギリスの支持が得られると知ると、今度はそれを外交カードとして使い、プロイセンにレオポルトのハンガリー王即位を同意させる。さらに[[墺土戦争 (1787年-1791年)|墺土戦争]]の停戦協定が結ばれ東の国境が安定すると、軍を[[ブラバント革命]]の鎮圧に投入した。
 
[[1791年]]も外交関係での緊張が続いた。[[フランス王国|フランス]]で[[ヴァレンヌ事件|ヴァレンヌ逃亡事件]]が起こり、妹[[マリー・アントワネット]]夫妻を危惧したレオポルト2世は、脱出に成功した国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の弟アルトワ伯(後の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]])を介して[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]と共に[[ピルニッツ宣言]]を行った。これはフランス人を激憤させ、[[フランス革命戦争]]になった。一方オスマン帝国とは[[スヴィヴァ条約]]を締結、墺土戦争を終わらせた。
 
在位わずか2年で死去し、帝位は長男[[フランツ2世]]が継承した。