「羽黒山政司」の版間の差分

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双葉山が現役でいた間、双葉山と1勝差で優勝を逃すこと2度、優勝同点1度、逆に2度の優勝はともに双葉山を1勝差でおさえてのものだった。2度目の優勝の頃からは「もう双葉山より強いのではないか」という声も聞かれるようになった。
 
[[第二次世界大戦]]の敗戦とともに双葉山が引退すると、名実ともに第一人者として戦後の復興真っ只中の相撲界を支えた。[[1945年]]11月場所から4連覇・32連勝を記録したが、その間に立浪の娘だった妻と長男を相次いで亡くす悲劇に見舞われ、その悲しみを乗り越えて全勝優勝を果たした(1946年11月場所)<ref name="100retsu"/><ref name="meiretsu"/><ref name="meiretsu22"/><ref>妻が死去したことに関しては「昭和21年の4月23日に女房が亡くなって、5月13日に子供が死んだんだ。21日目に長男を取られたんですが、その時巡業に出てたが、自分は横綱だったから部屋から電報が来ても休ませてくれなかったね。女房が亡くなった時は、わしらが岩国の方に巡業に行ってた時だったけど、そこで夜、電報を受け取ったんです。けどその晩は嵐で汽車が不通なんだ。仕方がないから次の日の昼間の急行に乗ったんですが、それも勧進元が『土俵入りだけはしてくれ』って言うもんだから土俵入りして飛び乗ったんです。だから東京に帰ったのは、女房が死んだ次の次の日。わしが部屋に入ったらちょうどお葬式の最中。お経が始まっていたところでした。女房の葬式を済ませてすぐ三重県の桑名へ巡業に出たんですが、そこからずっと東海道を打ちながら、御殿場まで来た時に、今度は『コドモキトク』の電報を受け取ったんです。跳んで帰ってきたら今手術をしたというところで、まだ息をしてました。わしが子供の手をつかんでやるとフッと目を開いて『とうちゃん、とうちゃん』って、手を離さなかったな。手を握ったまま死んで行ったです」と語っている。</ref><ref name="meiretsu52"> ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p52</ref>。それ以外にも、戦時中の食糧難により体重が90㎏台前半まで落ちたことがあるなど苦難を経験している<ref name="meiretsu54"> ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p54</ref>。
 
その後も羽黒山にはアクシンデントが続く。[[1948年]]4月23日の五條巡業で照國と取り組みを行った際に右[[アキレス腱]]を断裂、当時の日本の外科の権威によって手術が行われたが、半月程は下駄を履いて歩くのにも難儀した<ref>[[小島貞二]]によると、足が悪かった頃は右足が左足の半分ほどの細さになっていたという。</ref>。さらに同年7月の北海道巡業で[[横綱土俵入り]]を行った際、[[四股]]を踏んだ途端に同じ箇所を再び断裂してしまった。すでに羽黒山は30代に入っており、その後も後遺症で[[休場]]するなど再起が絶望視された<ref name="100retsu"/>が、周囲が引退に反対していたため続投<ref name="meiretsu54"/>。[[1949年]]5月場所で復帰し、11勝4敗で何とか踏みとどまったが、既に羽黒山のかつての勢いは失われたと思われた。しかし、[[1952年]]1月場所で最後の優勝を全勝で飾り、この時37歳2ヶ月で最高齢での全勝優勝記録となっている<ref>最高齢での幕内最高優勝は[[旭天鵬勝]]の37歳8ヵ月(2012年5月場所、前頭7枚目で12勝3敗)</ref>。この場所千秋楽の千代の山戦は、千代の山の激しい突きに羽黒山も応戦、右のど輪で攻め立てて左下手廻しを引くや、大きく下手投げを放ち快勝、という内容であった<ref name="meiretsu1952nen">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p43</ref>。