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[[File:Tanabeshinnosuke.jpg|thumb|田邊新之助]]
'''田邊 新之助'''(たなべ しんのすけ、[[文久]]2年([[1862年]])1月8日 - [[昭和]]19年([[1944年]])<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000031134]</ref>)は、日本の教育者、[[漢学者]]。[[漢詩|漢詩人]]としては田邊松坡(しょうは)と号した<ref name="日経20190529">[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO45365590Y9A520C1BC8000/ 袴田潤一「鎌倉に華 漢詩人・田辺松坡の魂◇逗子開成中創立や史跡保存に奔走した足跡◇」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2019年5月29日(文化面)2019年6月1日閲覧。</ref>。[[逗子開成中学校・高等学校|逗子開成中学校]]、[[鎌倉女学院中学校・高等学校|鎌倉女学校]]を創設した。[[東京開成中学校]]の校長も務めた。[[東京府]][[士族]]<ref>[{{NDLDC|761689/153}} 『万国地理新書』 (普通学全書 ; 第20編) / 田辺新之助 著 (富山房, 1892) ]</ref>。子に[[田辺元]]、孫に[[野沢協]]がいる。
 
== 略歴 ==
[[唐津藩]]藩士の子として[[江戸]][[深川区|深川]]の唐津藩邸で生まれ、6〜7歳ころに両親とともに[[唐津]]に転居<ref name="repo1" />。教師速成のために[[1876年]]に設けられた[[唐津伝習所]](元・[[藩校]]の耐恒寮。現・[[佐賀県立唐津東中学校・高等学校]])を卒業<ref>[http://www.geocities.jp/tamatorijisi/10003.htm 唐津東高校母校百年史]</ref>。[[1878年]]に上京し、[[大学予備門]]に学び、その傍ら元[[昌平黌]](昌平坂学問所)の学者からも学ぶ<ref>『[[週刊朝日]]』第 4584〜4586 巻(大坂朝日新聞社刊) 133p</ref>。恩師・[[高橋是清]]の引き立てで、[[1882年]]2月に共立学校(現・[[開成中学校・高等学校]])の漢文教師となる<ref name="repo1" />。英語や地理も教えた。教え子の一人であった[[斎藤茂吉]]は、田邊の授業で英語が楽しくなったと回想している<ref name="日経20190529"/>。[[1897年]]には、東京府立開成尋常中学校と改称した同校の校長となる(同校はのちに私立校に戻る)<ref name=repo1>[{{NDLDC|1454246/47}} 東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)]</ref>。
 
[[1900年]]に[[神奈川県]][[逗子市]]に第二開成中学校が設立され、田辺が校長兼任に、[[三島由紀夫]]の祖父である[[橋健三]]が幹事に就任した<ref>[{{NDLDC|1454246/58}} 東京開成中学校校史資料(東京開成中学校, 1936)]</ref>。これは[[横須賀]]の[[海軍兵学校]]を出た軍人の子供たちのため、東京の開成のような学校を横須賀に作りたい、という[[大日本帝国海軍|海軍]]の要請から準備されたもので、[[1903年]]4月に逗子開成中学校として開校した([[1919年]]から[[太平洋戦争]]終戦までは退役海軍少将が三代続いて校長に就任)<ref>[http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/402_3.html 海軍の町 横須賀]『有鄰』第402号、平成13年5月10日</ref>。開校にあたっては各方面に手紙を送って援助を乞い、高橋是清のほか[[団琢磨]]、[[服部金太郎]]ら財界人が応じた<ref name="日経20190529"/>。[[1901年]]には開成中学に夜学校の併設を申請し、[[1904年]]10月には、[[鎌倉]]に鎌倉女学校を創設、初代校長となる。同女学校副校長に就任した[[星野天知]]の自叙伝によると、田辺が女学校設立を鎌倉町会に申請したところ、町議の大石平左衛門が田辺に信用がないとして反対したため、表面上は田辺を校長にしたが、実際の学内準備は星野が施行したとしている<ref>『日本近代文学館資料叢書: 文学者の日記』星野天知・[[日本近代文学館]]著、博文館新社刊, 1999年</ref>。
 
[[1910年]]に、逗子開成の学生12名が死亡する[[逗子開成中学校・高等学校#ボート遭難事故|ボート遭難事故]]が起こり、同年3月に開成中学校長を橋健三に譲り、引責辞任。被害者への賠償金支払いのため鎌倉女学校の土地を売却するなどして女学校経営が厳しくなったため、[[陸奥宗光]]の長男・[[陸奥廣吉]]が共同出資者となり、田辺に替わって校長に就任<ref>下重暁子『純愛 エセルと陸奥廣吉』講談社</ref>。田辺は[[1914年]]2月に逗子開成の校長も辞し、鎌倉女学校の管理に専念する<ref name="repo1" />。[[1925年]]2月に同女学校を[[財団法人]]にし、校長兼理事となり、[[1934年]]に同校校長を辞した後は、漢書籍の研究に専念し、田邊松坡の名で漢詩や書を発表時折他校にて漢文の講義なども行なった<ref name="repo1" />。
 
漢学・漢詩を通じて文人との交流も多く、陸奥廣吉や[[黒田清輝]]らが1914年に史跡保存などのため結成した「鎌倉同人会」の命名、趣意書や市内各所の史跡を解説する碑文の執筆を担った。約6000冊と目される蔵書は、1947年に遺族により鎌倉市図書館に寄贈された。2018年に松坡文庫研究会が設立され、事績や蔵書の研究が進められている<ref name="日経20190529"/>。
 
墓所は鎌倉の[[寿福寺]]にある。