「栃錦清隆」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
35行目:
1925年に、[[傘#和傘|蛇の目傘]]の製造を営む家の二男として生まれる。<ref name="sengo">ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』20ページ</ref>少年時代から運動神経は抜群で、並外れた体力と恵まれた体格を見た近所の[[八百屋]]の勧めもあって[[春日野部屋]]の門を叩き、[[1939年]]1月場所で[[初土俵]]を踏む。[[四股名]]の「栃錦」は、春日野の現役名である[[栃木山守也]]と、その兄弟弟子だった[[大錦卯一郎]]から付けた<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)51ページから56ページ</ref>。
 
[[新弟子検査]]では直前に白飯と水を腹一杯に詰め込み、体重計の上に飛び乗って針を大きく揺らして通過したと<ref name="100retsu"/>いうほどの軽量で、周囲の期待はさほど高くはなかった。ただ、春日野だけは「軽量だから[[三段目]]でさすがに厳しいかと思っていると、ちゃんと相応の相撲を取る」と評価していた。これは、有望な弟子たちを次々に兵役へ取られていく中で、春日野としては栃錦に期待するしかなかった、とも言われている。春日野は死去直前、栃錦について「'''新[[十両]]の頃は『これが唯一の関取経験』と思ったら十両でも通用した。そう思った頃には幕内になって、それでも『上位には通用しない』と思ったら三役、『三役はつらいか』と思ったら[[大関]]になった。大関になって『流石に横綱は無理』と思ったら横綱になった。こんなことなら、栃錦に対して若い頃からもっと稽古をつけるべきだった'''」と後悔混じりに語っている。
 
栃錦は春日野から「寝る時は[[エビ]]のように小さくなって寝ろ。飯を食うときは大きな体で食え」という指導を受けたことを自伝の中で明かしている<ref name="ebikarada">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p39</ref>。[[序二段]]で一度負け越しただけで順調な出世を遂げ、[[1944年]]5月場所で十両昇進を果たすが、[[第二次世界大戦]]の激化によって徴兵され、[[1945年]][[8月15日]]の終戦まで軍隊生活を送る<ref name="100retsu"/>。
42行目:
栃錦は、戦後最初の場所となった[[1945年]]11月場所において十両4枚目格で番付に復帰した。当時の復員力士については番付復帰後1場所は休場しても地位が据え置かれる救済措置が取られていたが、栃錦はこれを受けずに出場し、6勝4敗と[[勝ち越し]]た。[[1946年]]11月場所は東十両筆頭で迎えたが、相手力士の負傷による[[痛み分け]]として6勝6敗1分と勝ち越せず、幕内昇進は厳しいと思われたが、[[安藝ノ海節男]]ら4力士が引退したことで、[[1947年]]6月場所で新入幕を果たす。入幕時の体重は僅か75kgしかなかった<ref name="100retsu"/><ref name="waza2">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p28</ref>。この場所は4勝6敗と負け越したが、当時はまだ[[東西制]]が実施されていた時代で、翌場所の十両陥落を免れた。なお、東西制はこの場所限りで廃止され、翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、十両陥落を免れた栃錦にとっては非常に強運だった。
 
=== 栃錦と三技能の常連 ===
入幕2場所目となる同年11月場所では西前頭16枚目で9勝2敗の好成績を挙げ、10勝1敗で幕内最高優勝の横綱・[[羽黒山政司]]に次ぐ星をあげる。この場所から[[三賞]]制度が始まり、栃錦も「何かもらえるかと思った」と話していたが、[[新入幕]]で同じ9勝の[[出羽錦忠雄]]に[[殊勲賞]]<ref>現在の選考基準に照らすと[[敢闘賞]]が相応しいが、同場所が新[[小結]]で1横綱3大関を倒し、7勝4敗の[[輝昇勝彦]]に[[敢闘賞]]が贈られるなど、当時はまだ各賞の選考基準が明確に定まっていなかった。</ref>が贈られ、栃錦には何も無かった。後に彼が独占する[[技能賞]]を初めて受賞する[[1949年]]1月場所では、優勝候補の一人だった大関・[[佐賀ノ花勝]]に立ち合いで思い切り当たり、前褌を引いて右から強烈な出し投げを打って勝利したことが評価され、これが受賞理由となった<ref name="100retsu"/>。
 
[[1951年]]1月場所では前頭2枚目で初日から7連敗を喫したが、その後は8連勝して8勝7敗と勝ち越した<ref>当人によれば、「上(位力士)に負けて下(位力士)に勝っただけ」だが、もう後が無い状態からの復活は恐るべき集中力と言えるだろう。</ref>。翌場所で小結に復帰以降は三役に定着し、大関・横綱へ駆け上がっていく。
 
[[1952年]]5月場所は10勝5敗で通算8回目の技能賞を獲得、協会から特別表彰を受けた<ref name="100retsu"/>。同年9月場所では場所中に高熱を発したが14勝1敗で初の幕内最高優勝を遂げ、感涙に暮れた。場所後に大関に昇進するが、この時の体重は98kgしかなかった<ref name="100retsu"/>。
 
新大関として迎えた[[1953年]]1月場所は、横綱[[照國萬藏]]が3日目に現役引退を表明、残る横綱・大関6人中3人が途中休場という大荒れの場所だったが、12日目まで1敗で優勝を争い、終盤に3連敗したものの11勝4敗、優勝の大関・[[鏡里喜代治]](14勝1敗)と共に上位陣の面目を保った。続く同年3月場所では14勝1敗で大関として初優勝を果たすと、同年5月場所でも13勝2敗で全勝の平幕・[[時津山仁一]]、14勝1敗で準優勝の横綱・[[吉葉山潤之輔]]に次ぐ3位の星を挙げ<ref>千秋楽は吉葉山と1敗同士で対戦し、時津山の結果次第で勝った方が[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]出場を争う一番になるところだったが、結局平幕の時津山が全勝のまま優勝を決めた。</ref>、その軽量から短命大関で終わってしまうのではないかと不安視する声を一掃し、次の横綱候補と目されるようになる。しかしこの直後、巡業先で一晩ハメを外したために体調を崩し、その後の3場所を8勝、9勝、9勝と低迷、春日野からは「一晩の不摂生が半年祟る」と慢心を叱責された。
 
=== 横綱昇進~栃若時代の到来 ===
[[File:Tochinishiki 541005 Scan10001.JPG|thumb|300px|1954年秋場所に優勝し、パレードに臨む栃錦]]
[[1954年]]5月場所において14勝1敗の好成績を挙げ、大関では2度目、通算3度目の幕内最高優勝を果たす。この当時は[[横綱審議委員会]]の連続優勝に関する内規が成立しておらず、諮問されたが横綱昇進は見送られた。当時は[[東富士欽壹]]・[[千代の山雅信]]・[[鏡里喜代治]]・[[吉葉山潤之輔]]の4横綱が存在していたため、前例のない5横綱時代が実現しかねなかった。同年9月場所は初日黒星ながらその後は白星を順調に積み重ね、このまま連続優勝を果たと思われたが、最悪の場合として今度も横綱昇進を見送られる可能性あった。しかし、14日目になって東富士が突然の現役引退を申し出た。それを聞いた栃錦もすぐに付き人を使者に立てて引退しないように説得したが、東富士の意思は変わらなかった。そして、栃錦は千秋楽に吉葉山に勝利して14勝1敗連続優勝を決め、場所後に第44代横綱昇進した<ref>結果的に東富士の引退と栃錦の横綱昇進は重なることになり、「一瞬の5横綱時代」とされている。番付面で5横綱が並ぶことは現在までいが、まだ髷断髪式落とす迎える前の東富士を交えて、5人の横綱がそろっ勢揃いした写真が数枚残されている。</ref>。横綱昇進時の口上は「'''ありがたくお受けいたします'''」であった<ref>Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p62</ref>。
 
新横綱場所の[[1955年]]1月場所は初日にいきなり[[大昇充宏|大昇]]に[[小手投げ]]で敗れ、[[金星 (相撲)|金星]]初供給してしまう。昭和以降の横綱で昇進場所初日が黒星スタートだったのは栃錦が史上の不名誉記録だった。その後も4日目に[[若瀬川泰二|若瀬川]]に[[うっちゃり|うっちゃられ]]るなど平幕戦だけで3敗を喫し、10勝5敗と不本意な成績に終わる。続く3月場所も初日に[[双ツ龍徳義|双ツ龍]]に敗れたあと、5日目まで黒星と白星が交互するいわゆる「[[ヌケヌケ]]」の立ち上がりだったが、6日目から10連勝で盛り返し、終わってみれば12勝3敗、13勝2敗で優勝の[[千代の山雅信|千代の山]]、優勝同点の[[大内山平吉|大内山]]に次ぐ3位の成績だった<ref name="100retsu"/>。横綱3場所目となる5月場所は初日から8連勝、9日目の[[時津山仁一]]に敗れたのみの14勝1敗で、横綱昇進後初となる5回目の優勝を果たす。5回の優勝はこの時点で千代の山と並び現役最多だったが、この直後の巡業中から体調を崩し、続く9月場所は7日目から初土俵以来初めての休場<ref>戦時中の徴兵によるものを除く。</ref>となる。このあとの1年弱は「土俵生活で一番辛かった時期」というほど衰弱が著しく、結局次の優勝([[1957年]]9月)まで丸2年を要することになった<ref name="100retsu"/>。
 
[[1958年]]後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体を逆に生かして正攻法の相撲に変え、1959年3月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を果たし、その後は引退まで12勝を下回ることがない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率9割0分5厘).905)という驚異の成績を続ける。
横綱3場所目となる5月場所は初日から8連勝、9日目[[時津山仁一|時津山]]に敗れたが結局この1敗だけで14勝、横綱として初となる5回目の優勝を果たす。5回の優勝はこの時点で千代の山と並び現役最多だったが、この直後の巡業中から体調を崩し続く9月場所は7日目から初土俵以来初めての休場<ref>戦時中の徴兵によるものを除く。</ref>となる。このあとの1年弱は「土俵生活で一番辛かった時期」というほど衰弱が著しく、結局次の優勝([[1957年]]9月)まで丸2年を要することになった<ref name="100retsu"/>。
 
[[1959年]][[10月3日]]に[[栃木山守也|春日野]]が亡くなると、前年に廃止されていた[[二枚鑑札]]が特例として認められ、年寄・春日野と[[春日野部屋]]を継承する。1959年7月場所は優勝できなければを逃したら引退しようと考えた上で挑み、場所前から床山に中剃を断っていた。この場所では14日目に優勝を決めたものの、その晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故死する悲運に見舞われた。この悲かしみを乗り越え、翌日の千秋楽では[[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]]を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした<ref name="100retsu"/>。千秋楽の取組では、左差し右おっつけの鋭い出足で若乃花を一気に寄り切った。この場所の優勝を決めた際、栃錦は「わしワシが相撲取りじゃなかったら、おやじ親父もこんなことにはならなかった。やっぱりわしワシが死なせたようなもの」と喜びはかった<ref>『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p46</ref>。最後の優勝となった[[1960年]]1月場所では、この年から[[エール・フランス航空]]が毎年、初場所の優勝力士を[[ヨーロッパ]]へ招待することになり、栃錦は[[出羽ノ花國市|武藏川]]とともに渡欧した。
[[1958年]]後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体を逆に生かして正攻法の相撲に変え、1959年3月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を果たし、その後は引退まで12勝を下回ることがない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率9割0分5厘)という驚異の成績を続ける。
 
1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗<ref>[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を含むなら19勝16敗で、うち一回は[[1956年]]9月場所における栃錦の不戦勝。この場所は、直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった。</ref>。
[[1959年]]に春日野が亡くなると、前年に廃止されていた[[二枚鑑札]]が特例として認められ、[[春日野部屋]]を継承する。1959年7月場所は優勝できなければ引退しようと考えた上で挑み、場所前から床山に中剃を断っていた。この場所では14日目に優勝を決めたものの、その晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故死する悲運に見舞われた。しかし翌日の千秋楽に[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした<ref name="100retsu"/>。千秋楽の取組では、左差し右おっつけの鋭い出足で若乃花を一気に寄り切った。この場所の優勝を決めた際、栃錦は「わしが相撲取りじゃなかったら、おやじもこんなことにはならなかった。やっぱりわしが死なせたようなもの」と喜びはなかった<ref>『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p46</ref>。最後の優勝となった[[1960年]]1月場所では、この年から[[エール・フランス航空]]が毎年、初場所の優勝力士を[[ヨーロッパ]]へ招待することになり、栃錦は[[出羽ノ花國市|武藏川]]とともに渡欧した。
 
=== 若乃花との取り組み対戦 ===
1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗<ref>[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を含むなら19勝16敗。うち一回は[[1956年]]9月場所、栃錦の不戦勝。この場所は、直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった。</ref>。5月場所は初日から2連敗すると、「衰えてから辞めるのは本意ではない」という師匠の教えを忠実に守るかのように、潔く引退を表明した。こうして栃若時代が終焉した直後には柏鵬時代に移り変わっており、その様子は丁度世相が[[安保闘争]]から[[高度経済成長]]へと移行したタイミングと一致している。後年[[日本放送協会|NHK解説委員会]]でもこの点について話題が挙がっている。<ref name="nhk">[http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/147198.html 視点・論点「大鵬の時代」]NHK解説委員会 2013年02月06日(水)東京工業大学名誉教授・[[芳賀綏]]の記述</ref>
[[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]]とは[[1951年]]5月場所の初対決顔合わせからいきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(この初対決は若乃花利した)、これ常に熱戦・好勝負を演じ続けてきた。[[1953年]]3月場所にはあまりの大勝負に栃錦の水引が切れて髷がほどけ、しばらくそのまま取組を続けたが動きが止まったところで行司が待ったをかけ、土俵下でとりあえずの髷を結って勝負再開、大熱戦の末に栃錦が外掛けで勝った<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p51</ref><ref>『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.58-59</ref>。栃若の対戦となれば[[水入り]]は当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場したばかりの[[テレビ]]を通して全国の相撲ファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士たち次々になぎ倒す二人の姿[[第二次世界大戦]]の敗戦から戦後の復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々はとても多かったとされる。土俵狭しとまぐるしく動き回る二人の攻防がテレビ時代の到来にふさわ相応しいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士たちの活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に '''栃若時代'''という。
 
両者の対戦は、1951年5月場所 - から1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦の1不戦勝を含む)し、千秋楽において両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は水入りになることが多かった。'''千秋楽'''(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
幕内通算513勝は当時の最多勝記録だったが、1年2ヶ月後の[[1961年]]7月場所で若乃花によって更新される<ref>2013年現在の記録は[[魁皇博之]]の879勝。</ref>。
 
=== 若乃花との取り組み ===
若乃花とは1951年5月場所の初対決から、いきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(この初対決は若乃花の勝ち)、以来常に熱戦・好勝負を演じ続けてきた。1953年3月場所にはあまりの大勝負に栃錦の水引が切れて髷がほどけ、しばらくそのまま取組を続けたが動きが止まったところで行司が待ったをかけ、土俵下でとりあえずの髷を結って勝負再開、大熱戦の末に栃錦が外掛けで勝った<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p51</ref><ref>『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.58-59</ref>。栃若の対戦となれば[[水入り]]は当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場した[[テレビ]]を通して全国のファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士たちをなぎ倒す二人の姿に、敗戦から復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々は多かった。土俵狭しとめまぐるしく動き回る二人の攻防がテレビ時代の到来にふさわしいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士たちの活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に '''「栃若時代」'''という。
 
両者の対戦は、1951年5月場所 - 1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦の1不戦勝を含む)し、千秋楽において両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は水入りになることが多かった。'''千秋楽'''(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
 
{| class="wikitable"
160 ⟶ 156行目:
* 両者横綱同士の対戦成績(1958年3月場所以降)は、'''若乃花の6勝4敗'''。
 
=== 現役引退 ===
1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗<ref>[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を含むなら19勝16敗。うち一回は[[19561960年]]9月場所、栃錦の不戦勝。この場所は、直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった。</ref>。5月場所は初日から2連敗すると、「衰えてから辞めるのは本意ではない」という師匠の教えを忠実に守るかのように、潔く引退を表明した。こうして栃若時代が終焉した直後には柏鵬時代に移り変わっており、その様子は丁度世相が[[安保闘争]]から[[高度経済成長]]へと移行したタイミングと一致している。後年[[日本放送協会|NHK解説委員会]]でもこの点について話題が挙がっている<ref name="nhk">[http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/147198.html 視点・論点「大鵬の時代」]NHK解説委員会 2013年02月06日(水)東京工業大学名誉教授・[[芳賀綏]]の記述</ref>。幕内通算513勝は当時の最多勝記録だったが、1年2ヶ月後の[[1961年]]7月場所で[[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]]によって更新され、2013年現在の記録は[[魁皇博之]]の879勝。
引退後は先代から引き継いだ[[栃ノ海晃嘉]]を横綱へ、[[栃光正之]]を大関まで育て、それ以外にも数多くの関取を育てた。
 
引退後は[[二枚鑑札]]([[1958年]]に廃止されていたが特例で認められていた)で襲名していた年寄・春日野として、[[栃木山守也|先代]]から引き継いだ[[栃ノ海晃嘉]]を横綱へ、[[栃光正之]]を大関まで育て、それ以外にも数多くの関取を育てた。
年寄・春日野としては「力士とは力の紳士と書く、ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。他に審判部長・事業部長などを歴任し、審判部長としては[[1969年]]3月場所2日目、[[羽黒岩智一|戸田智次郎]] - [[大鵬幸喜]]戦<ref>[[木村庄之助 (26代)|式守伊之助]]と共に大鵬の勝ちと主張したが、春日野以外の審判は戸田の勝ちを支持し、行司差し違えで「戸田の勝利・大鵬46連勝ならず」となるが、これは誤審であることが判明した。相撲判定にビデオ判定を導入する用意は行なわれていたが、この相撲が前倒し導入のきっかけとなった。</ref>、[[1972年]]1月場所8日目の[[貴ノ花利彰|貴ノ花満]] - [[北の富士勝昭]]戦<ref>北の富士の[[つき手]]か[[かばい手]]かを巡って大物言いとなる。[[木村庄之助 (25代)|木村庄之助]]は「付き手」として貴ノ花に軍配を上げたが、春日野は「かばい手」=貴ノ花は[[死に体]]と主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。</ref>といった、判定を巡る歴史的な大事件に関わった。
 
年寄・さらに春日野としては「力士とは力の紳士と書くただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。他に審判部長・事業部長などを歴任し、審判部長としては[[1969年]]3月場所2日目、[[羽黒岩智一|戸田智次郎]] - [[大鵬幸喜]]戦<ref>[[木村庄之助 (26代)|式守伊之助]]と共に大鵬の勝ちと主張したが、春日野以外の審判は戸田の勝ちを支持し、行司差し違えで「戸田の勝利大鵬46連勝ならず」となるが、これは誤審であることが判明した。当時は相撲の勝敗判定にビデオ判定を導入する用意は行なわれていたが、この相撲が前倒し導入のきっかけとなった。</ref>、[[1972年]]1月場所8日目の[[貴ノ花利彰|貴ノ花満]] - [[北の富士勝昭]]戦<ref>北の富士の[[つき手]]か[[かばい手]]かを巡って大物言いとなる。[[木村庄之助 (25代)|木村庄之助]]は「付き手」として貴ノ花に軍配を上げたが、春日野は「かばい手=貴ノ花は[[死に体]]と主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。</ref>といった、判定を巡る歴史的な大事件に関わった。
[[1974年]]には[[出羽ノ花國市|武蔵川]]から日本相撲協会理事長職を継ぐ<ref name="waza2"/>。{{要出典範囲|この時、武蔵川の娘婿である[[佐田の山晋松|出羽海]]が理事長になるまでの繋ぎの短期政権と見られていた。|date=2013年5月}}しかし理事長となってからは、
 
[[1974年]]には[[出羽ノ花國市|武蔵川]]から日本相撲協会理事長職を継ぐ<ref name="waza2"/>。{{要出典範囲|この武蔵川の娘婿である[[佐田の山晋松|出羽海]]が理事長に就任するまでの繋ぎの短期政権と見られていた|date=2013年5月}}しかしが、理事長となってから就任後は、
# 新しい[[両国国技館]]への移転
# 国技館を無借金で建設する<ref name="ebikarada"/>(理事長就任時、武蔵川から「新(両国)国技館を建てるのは君しかいない」とメッセージを託されている)
172 ⟶ 170行目:
するなど、1990年代の若貴人気につながる相撲人気の復興のための数々の改革を、大鵬・[[柏戸剛|鏡山]]・出羽海、[[豊山勝男|時津風]]などの若手親方を協会の要職に起用しながら推進し、現役時代を髣髴とさせる多彩な技と、大きく素早い動きを見せて7期14年の長期安定政権を維持した。
 
理事長就任当時は協会内部で主流派・反主流派の派閥争いが展開されており、前述の「短期政権」と見られる原因となっていたが、派閥に関係なく能力次第で協会の要職に登用するなどして争いは沈静化し、「すぐに『理事長に一任します』と言われて拍子抜けするんだ」と本人が述べるほど、スムーズな協会運営が可能となった。その後、[[糖尿病]]などの影響で一時は歩けなく行困難になるど体調が悪化するがこれを克服し、[[1985年]]には落成したばかりの両国国技館で、[[露払い]]に出羽海・[[太刀持ち]]に[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]を従えて[[還暦土俵入り]]を披露した。また横綱・[[北尾光司|双羽黒光司]]に対してもかなり理解ある立場を取っていたことで知られており、双羽黒が横綱時代に起こし発生させた付き人脱走事件や不祥事による廃業については[[安念山治|立浪]]の指導方針や部屋経営に問題があるという主張を展開していた。
 
=== 晩年 ===
[[1988年]]1月場所をもって理事長職を二子山に譲って勇退し、自らは相撲協会の[[相談役]]に就任した。[[1989年]]11月場所の初日直前に[[脳梗塞]]で倒れ、福岡市の病院へ緊急入院。その後も予断を許さない状況が続く中、[[1990年]]1月場所開催中の4日目だった同年[[1月10日]]に脳梗塞のため64歳で死去。65歳の停年退職を迎える僅か約1ヶ月前だった。現役時代のライバルだった[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]理事長は、栃錦の訃報に関する記者会見に臨むも言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてもらえるかな…」と数分間会見の席を立ち去った。その後会見場に戻ってからの二子山は動揺を抑えきれずに「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を拭いつつ、共に土俵を盛り上げた最大のライバルの死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙祷を行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。
 
現役時代の[[ライバル]]だった二子山理事長(当時)は、栃錦の訃報に関する記者会見に臨むも言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてもらえるかな」と数分間会見の席を立ち去った。その後会見場に戻ってからの二子山は動揺を抑えきれずに「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を拭いつつ、共に土俵を盛り上げた最大のライバルの死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙祷を行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。
 
没後の1990年[[12月25日]]、相撲界における多大な功績を讃えられ、故郷・江戸川区南小岩にある[[東日本旅客鉄道|JR]][[中央・総武緩行線|総武線]]・[[小岩駅]]の改札前に、横綱当時の[[横綱土俵入り|土俵入り]]の姿をかたどった栃錦の銅像が建てられた。栃錦像は現在も小岩駅のシンボルとして、待ち合わせ場所の目印になっている。
 
また、相撲界としては初めて[[従四位]]・勲二等[[瑞宝章]]を追贈された<ref>[http://www.nihontosho.co.jp/1997/06/39.html 『人間の記録39 栃錦清隆 栃錦一代』内容構成]日本図書センター </ref>。
日本図書センター </ref>。
 
== 人物 ==
[[File:Tochinishiki VS Wakasegawa 1954-3b-05 Scan10002.JPG|thumb|right|1954年春場所5日目、[[若瀬川泰二]]を[[上手出し投げ]]で破る栃錦]]
入門直後は兄弟子の栃ノ峯などから押し相撲を教わった<ref name="waza">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p17</ref>が、取的時代に春日野の付き人になってからは春日野の燗番をしている時に廻しの切り方や四十八手の難しそうな技を手取り足取り教わり、これがのちの技巧につながった<ref name="100retsu"/>。中でも出し投げの技術は弟子たちにも伝えられた<ref name="waza"/>。平幕から三役にかけては、「相撲の技は全て使った」と言われる業師ぶりを発揮した(その相撲ぶりを'''技の展覧会'''と評されたりもした)。現在でも反り技など滅多に出ないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞する<ref name="waza2"/>など、「[[三賞|技能賞]]は栃錦のためにある」とまで言われた。その一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、横綱昇進のころ(106kg)から見違えるように体重も増え140キロにもなるほどになり、無駄を排した寄り押し相撲中心の取り口に変わった。この頃のような相撲を取れた背景には新弟子時代に押し相撲を仕込まれたことがある<ref name="waza"/>。一人の力士がその土俵人生でこれほど明らかに取り口が変化し、そして大成した例は少ない。
 
大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、[[新弟子検査]]の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。
194 ⟶ 189行目:
== エピソード ==
=== 横綱昇進まで ===
* 初土俵を踏んだ[[1939年]]1月場所4日目、[[双葉山定次]]が[[安藝ノ海節男]]に敗れて連勝が69で止まった「世紀の一番」を、結びの一番を取る兄弟子の[[鹿嶌洋起市]]の世話のために花道の奥にいて目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」と後年まで語った。
* 新弟子時代、[[相模川佶延]]を贔屓にしていた[[尾上菊五郎 (6代目)|6代目尾上菊五郎]]に気に入られていた。後に菊五郎は「春日野部屋にいた『マムシ』<ref name="sengo"/><ref>エラの張った顔で眼光鋭く、一度食いついたら離さない相撲ぶりからそう渾名された。</ref>はどうしてる?」と聞き、幕内にいる栃錦がそうだと教えられて驚いたという。
* 兄弟子の[[付き人]]に付いていた時、年端もいかないうちからこき使われるのを見かねた春日野が、栃錦を自分付きにした。その食事の世話をしながら様々な訓話を聞かされた。栃錦の十両昇進が決まった時に春日野の指示で靴磨きをしていたが、関取にしか着用を許されない[[丹前|ドテラ]]を着ていることに気がついた春日野から一度は叱責されたものの、直後に「おお、すまん。お前(栃錦)はもう関取だったな」と言われたことがあった。
* 同門で自分より若い[[千代の山雅信]]に出世で追い越され、一時期は千代の山との稽古を嫌っていた。しかし、[[栃木山守也|春日野]]から「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ?」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には、千代の山自慢の[[突っ張り]]を何発も顔に当てた影響で早く歯を失ったため、「ワシは昔、千代の山との稽古で歯をやられたから、ワシだけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山が引退して九重を襲名後、一門から九重が破門されても決して険悪にならず、栃錦が理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。
* 同郷で仲が良かった[[大江戸勇二]]と江戸時代の大関[[両國梶之助 (初代)|両國梶之助]]を描いた映画を見に行ったとき、映画の中のセリフを真似て「俺は天下第一の力士になる」と言うと、「大塚さん(栃錦)が天下第一の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と笑われた。栃錦が大関に昇進した時、大江戸に「おい、何か忘れてないか?」と聞くと、大江戸は頭を抱えて「降参、降参! 勘弁して下さい」と苦笑したという。
* 「自分にとって栃木山と双葉山は神様です」と語っていた。[[幕下]]時代、双葉山が春日野部屋の幕下力士全員を呼んで稽古をつけた時、栃錦は[[ちゃんこ]]番だったにも関わらず志願して参加した。しかし、直前までちゃんこに入れる魚を調理しておりから手も洗わずに参加したため、双葉山と組んだ瞬間に「お前、魚臭いな」と冗談交じりに言われて放り投げられた<ref name="sengo"/>。また、春日野の用事で料亭にいる双葉山を訪ねた時、その場にいた[[芸妓]]の美しさと、美女をはべらせて悠然としている双葉山の姿に胸を打たれ、強くならなくてはと誓った逸話を、後に明かしている。
* 兵役にとられた時すでに十両だったが、最初は力士とは思ってもらえなかった。上官との草相撲で手心を加えることなく連戦連勝し、それでようやく本職だと知ってもらえたが、やはり軽量のため「三段目くらいか?」「幕下か?」と言われ、なかなか関取だとは思ってもらえなかった。
* [[蔵前国技館|蔵前仮設国技館]]での最初の場所となった[[1950年]]1月場所で新小結、土俵から四本柱の取り除かれた[[1952年]]9月場所で初優勝して大関昇進、国技館が正式に落成した[[1954年]]9月場所で横綱昇進と、当人も「相撲場で何か変化のあった場所はゲンが良い」と言っていた。
205 ⟶ 200行目:
=== 横綱時代 ===
[[File:Tochinishiki 1954 Sep Dohyo-iri from Mainichi Shinbun.jpg|thumb|right|栃錦の土俵入り(1954年9月場所)]]
* 横綱昇進が決定した日の夜、喜び勇んでいた栃錦は、春日野から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された。横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば即刻引退するほか道が無いため、横綱昇進が決定した日から常に「引退」の覚悟を持ち続けなければならないという意味の説教だった。横綱に昇進したその日に早くも引退の話を切り出されて驚いたが、春日野自身も3場所連続優勝という絶頂期に「力が衰えてから辞めるのは本意ではない」と言いつつ周囲の反対を押し切って現役を退いた過去を持つ人物だったため、この説教を言い渡された栃錦はそれまで浮ついていた気持ちが一気に引き締まったと後年語っていた。また、この春日野の教えは、栃錦の談話を通して同門の[[千代の山雅信]]・[[北の富士勝昭]]・[[千代の富士貢]]へと代々受け継がれ、さらに別門の[[大鵬幸喜]]にも真摯に受け継がれた。
* 土俵入りは春日野直伝の「雲龍型」だったが、当人によれば出羽一門伝統の「[[常陸山谷右エ門|常陸山]]型」と呼ぶべきものだったという。テンポの速い土俵入りで、「要所要所でのタメがなく忙しない」などの批判もあったが、現役時代から取口も土俵入りも早いことで有名だった春日野から「体の小さい者が大型力士のようにゆったり演じても格好がつかない」と指導されたのと、新横綱の場所に初日から黒星を喫してから序盤で黒星が付く負け癖が付き、観客の野次が気になって土俵入りを早く終わらせたいと思っているうち、それが癖になってしまったという。
* [[1959年]][[7月18日]]の名古屋場所14日目で、栃錦は9度目の幕内最高優勝を決定させた。この日の祝賀会に向かっていた父の大塚夏五郎が、[[東京都]][[江戸川区]]小岩の千葉街道でオート3輪に轢かれる[[交通事故]]に遭い、脳底骨折で翌日25時に73歳で死亡した。自分の優勝が結果として父親の死亡に結びついたことに栃錦は沈痛な気持ちとなり、弔い合戦となった千秋楽は見事勝利して全勝優勝を決めた。
* [[1959年]]5月場所と[[1960年]]3月場所の二度、初日から14連勝しながら優勝を逃している。同様のケースは2012年7月場所の[[白鵬翔|白鵬]]まで8例あるが、一人で二度記録したのは栃錦だけで、しかも「千秋楽に本割・決定戦と連敗して逆転を許す」と「全勝対決に敗れて優勝次点」というふたつのパターン両方やっを経験している。どちらの時も優勝をさらわれ相手[[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]]だった。
* 1959年7月場所初日から翌9月場所9日目までの24連勝は、この時点で双葉山、羽黒山らの記録についで昭和以降6位<ref>自著『栃錦一代』の中で「(昭和では)双葉関六十九連勝、羽黒関の三十二連勝につぐもの」(p.198)と書いているが、双葉山には他に36連勝と29連勝が、[[玉錦三右エ門|玉錦]]にも27連勝があって、これは誤り。</ref>、年6場所制での記録としては、3年後に[[大鵬幸喜|大鵬]]に抜かれるまで最多だった。
* 春日野から相撲を誉められたのはただ一番、[[1955年]]5月場所千秋楽の[[大内山平吉]]戦だけだったという。大内山の猛突っ張りを受けながら乾坤一擲の[[首投げ]]で破った死闘だったが、春日野からは「優勝が決まったあとの千秋楽(前日14日目に栃錦の優勝が決まっていた)によくあれだけの相撲を取った」と誉められたという。
* 栃錦自身は徴兵経験があるが、栃錦曰く「相撲部屋は軍隊の訓練より厳しい」というのが持論だった。
215 ⟶ 210行目:
 
=== 理事長時代・晩年 ===
* [[1978年]]頃のある日、天覧相撲の席で[[昭和天皇]]に取組を解説していた時、前頭上位で成長著しい[[蔵間龍也]]を取り上げて「蔵間は大関になります」と胸を張った。しかし当の蔵間は大関どころか三役に定着することすら出来ず、天皇は「蔵間、大関にならないね」と漏らした。春日野は「私は陛下に嘘を申し上げてしまいました」と謝罪し、その直後に蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという。
* [[両国国技館]]建設の折り、[[鹿島建設]]が当初出した工事の見積もりは161億5千万円だったが、二子山と二人で鹿島建設の社長に会い、端数の11億5千万円を値引きさせて150億円に負けてもらった。社長には「相撲取りは相手を負かすのが仕事です。今日は負かしに来ました。相撲には横綱五人掛かりがあるが、社長には栃若二人掛かりです」と言ったという。それでも150億円もの建設費は武蔵川理事長の時代から続く徹底した経費節約があって初めて完全に用意できるものであった<ref>資金調達のために力士や親方の給与を抑えており、後年、八角理事長(元横綱・[[北勝海信芳]])は自身が1983年に新十両に昇進した際の給料について「月給28万円だった。ずいぶん抑えられていたよね」と笑ってコメントしたことがある。
: [http://www.asahi.com/articles/ASJDM5D7QJDMUULB00F.html 国技館、無借金で再建の訳 2人の名横綱が「寄り切り」] 朝日新聞DIGITAL 2017年1月26日10時59分</ref>。さらに両国の土地所有者である[[日本国有鉄道]]が大赤字であり蔵前が両国より土地の値段の高い時期を狙ったことで、蔵前の土地を売って両国の土地に買い替えつつ差額で建設費の一部を手に入れることもできた。
* 趣味は[[ゴルフ]]で、自慢は「角界第一号の[[ホールインワン]]」。ある時のラウンドで大叩きするが、バンカーショットは上手いので一緒に回っていたプロに皮肉られると「こちとらは土俵の砂の上でさんざん散々苦労してきましたからね」とやり返した。
* 別格の話好きで、取材に来た報道陣を捕まえては面白おかしく聞かせる話上手だった。晩年の代表作は幕内最高優勝者に送られる「全農賞」の副賞である米30俵についてで、「'''オレが頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には一度も来ない。いつも[[千代の富士貢|九重部屋]]に持っていかれるんだから情けない。九重部屋じゃ、では米を買ったことがないっていうじゃないか'''」と発言したこともある。
* 親方としては珍しく実子がおらず、ある時は「部屋の若衆が子供のようなものだ」と述べたことがある。[[北の湖敏満]]を養子に迎える意向を持っていたともいわれ<ref>1995年7月24日付日刊スポーツ</ref>、北の湖夫妻の仲人を務めている。
*また、師匠栃木山の死後、夫婦養子となり、「中田」姓となったが、養家の中田家は実子がなく、栃錦まで代々、夫婦養子で相撲茶屋「大和屋」を経営していたが、現在の経営者は栃木山の親族で、栃錦共々養子となっている。また、部屋所属の三役格行司15代木村庄太郎は夫人が栃錦の養女(夫人の姪)に当たる。
 
=== その他 ===
* [[ジョン・フォード]]の大ファンでもあって、1954年に[[淀川長治]]が編集長の雑誌「映画の友」のインタビューを受けて、「西部劇の魅力」について存分に語ったことがある<ref>[[佐藤有一]]『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)</ref>。
* [[にわのまこと]]の漫画「[[THE MOMOTAROH]]」に“'''カス日野理事長'''”という名のパロディで登場している。役職は河童族の伝統的な神事である「河童相撲」の理事長。
* 尻が[[おでき]]やその痕で汚いと言われており、「尻が汚いときの栃錦は好調だ」というあまりありがたくない言われ方もされていた。
 
== 主な成績 ==