「冬青木坂」の版間の差分

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名称の由来には諸説あるが、主に以下の二つがあげられる。
 
 [[千代田区]]が設置した標識によれば、1697(元禄10)(1697年)の大火災後、冬青木[[坂]]より北側には[[武家屋敷]]が広がり、南側には元飯田町があった。その坂の途中にあった[[武家屋敷]]に植えられていた古木が[[モチノキ]]であるということから名付けられた。[[明治]]時代、坂上の東角には、[[JR中央線]]の前身である[[甲武鉄道]]の建設に力を尽くし、社長を務めた[[雨宮啓次郎]]の邸宅があった。
 
 『新編江戸志』には、「此所を冬青木坂といふこと、いにしへ古びたるもちのき樹ありしより所の名と呼びしといへども、さにはあらず、この坂の傍に、古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ、目にはもちの木と見まがへり。この樹、さきの丙午の災に焼けて、ふたたび枝葉をあらわせしとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて、その記、彼の家記に正しく記しありといへり」と、昔この坂のそばにもちの木に似た名前のはっきりわからない[[常盤木]]があり、そこからこの坂に「もちのき」の名前がついたようだが、火災で燃えてしまった、とある<ref>大石学『坂の町・江戸東京を歩く』 PHP研究所 2007年 P104~P106 </ref>。