「賤ヶ岳の戦い」の版間の差分

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== 賤ヶ岳の七本槍 ==
秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に'''賤ヶ岳の七本槍'''('''しずがたけ の しちほんやり''')と呼ばれる。実際に感状を得、数千石の禄を得たのは[[桜井家一|桜井佐吉家一]]、[[石川一光|石川兵助一光]]も同様である。江戸初期の『甫庵太閤記』に見られる"賤ヶ岳の七本槍"の呼び名が初見である。7人というのは語呂合わせで、『一柳家記』には「先懸之衆」として七本槍以外にも[[石田三成]]や[[大谷吉継]]、[[一柳直盛]]も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている<ref>『一柳家記』</ref>。後年七本槍は豊臣政権において大きな勢力を持つに至ったが、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌った(今日の研究では清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされる<ref>大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」(初出:『堺市博物館研究報告』32号(2013年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)</ref>)などの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。
 
* [[脇坂安治]]([[1554年]] - [[1626年]])