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[[ファイル:Hiroshige III - Bokusui tsutsumi hanazakari.jpg|サムネイル|墨堤(隅田川の堤)の花見客を描いた三代広重の「東京名所第一の勝景墨水堤花盛の図」1881年。]]
日本の花見は[[奈良時代]]の[[貴族]]の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞されていたが、[[平安時代]]に桜に代わってきた。それは[[和歌|歌]]にも表れており、また『[[万葉集]]』には桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度みられ、[[梅花の宴]]のように梅を観賞しながらの歌会も開かれていた。これが[[10世紀]]初期の『[[古今和歌集]]』では、桜が70首に対し梅が18首と逆転している。「花」が桜の別称として使われ、女性の美貌が桜に例えられるようになるのもこの頃からである。
 
『[[日本後紀]]』には、[[嵯峨天皇]]が[[812年]][[3月28日]]([[弘仁]]3年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]])に[[神泉苑]]にて「花宴の節(せち)」を催した<ref name="jiten">「年中行事事典」p656 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref><ref>『日本後紀』 弘仁3年2月条</ref>とある。時期的に花は桜が主役であったと思われ、これが記録に残る花見の初出と考えられている。前年に嵯峨天皇は[[地主神社]]の桜を非常に気に入り、以降神社から毎年桜を献上させたといい、当時、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と見られる<ref name=nhk>『歴史ヒストリア』日本人と桜の物語、NHK, 2015年3月25日</ref>。[[831年]]([[天長]]8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。その様子は『[[源氏物語]]』「花宴(はなのえん)」にも描かれている。また、『[[作庭記]]』にも「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代において桜は庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・[[東山]]もこの頃に誕生したと考えられている<ref name=nhk/>。