「マーガレット・オブ・ヨーク」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = マーガレット・オブ・ヨーク
| 各国語表記 = {{lang|en|Margaret of York}}
| 家名・爵位 = [[ヨーク家]]
| 画像 = Margaret_of_York_(Louvre).jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = マーガレット・オブ・ヨーク (1468年頃ラブレーにて)
| 続柄 =
| 称号 =
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| 生地 = {{ENG927}}、[[ノーサンプトンシャー]]、フォザリンゲイ城
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1446|5|3|1503|11|23}}
| 没地 = [[File:Bandera de Borgoña.svg|border|25x20px]] [[ネーデルラント|ハプスブルク領ネーデルラント]]、[[メヘレン]]
| 没地 = [[メヘレン]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
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| 配偶者2 =
| 子女 =
| 父親 = [[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード・プランタジネット]]
| 母親 = [[セシリー・ネヴィル]]
| 役職 =
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== ブルゴーニュ公妃 ==
[[1468年]]7月9日、マーガレットが[[ブルッヘ]]で[[ブルゴーニュ公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]と結婚したのには、[[イングランド王国|イングランド]]と[[ブルゴーニュ公国]]の同盟のためという政治的な理由があった。すでにシャルルの政敵である[[ヴァロ朝]][[フランス王国|フランス]]王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]はフランス統一を着々と進めており、それに対抗するシャルルは大きく後れを取っていたのである。「世紀の結婚」と言われるほど結婚式は豪華を極め、当時ブルゴーニュで最も裕福だったブルゴーニュ公国の宮廷の標準から見ても贅沢なものだったと言われている。
 
マーガレットとシャルルには子供がなかったが、マーガレットはすでに亡くなっていた先妻[[イザベル・ド・ブルボン]]の所生である[[マリー・ド・ブルゴーニュ|マリー]](当時11歳)の良き母として努め、マリーもまた義母マーガレットを慕った。夫シャルルとの死別後マリーが[[神聖ローマ皇帝]]となる[[ハプスブルク家]]の[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン]]大公と結婚した際に、仏王からの介入に対して夫妻と公国のために尽力した。その動乱が一息ついた[[1482年]]にマリーが乗馬の事故により25歳で亡くなると、マーガレットはマリーの遺児となった2人の幼子[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ]]と[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]]の世話をした。