「文禄・慶長の役」の版間の差分

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*7月5日、9日〜10日<ref>中野等『立花宗茂』(吉川弘文館)70頁</ref>。'''第一次[[錦山の戦い]]'''。[[高敬命]]らの朝鮮義兵7千が小早川隆景、立花宗茂ら六番隊の根拠地錦山を攻撃するが逆襲を受け壊滅、高敬命は戦死した{{Sfn|旧参謀本部|1995|pp=86,185}}。
*7月7日、'''[[熊峠の戦い]]'''。小早川隆景ら六番隊は熊峙で[[鄭湛]](金堤郡守)率いる数千の朝鮮軍を撃破。鄭湛は戦死した{{Sfn|旧参謀本部|1995|pp=86,184}}。またこれと並行して六番隊の一部部隊2,000人が梨峙に向かったが、権慄らに撃退された('''梨峙の戦い'''){{Sfn|旧参謀本部|1995|p=184}}。
*7月7日~8日、朝鮮義兵将[[金ミョン|金沔]]は'''[[牛脊峴戦闘]]'''で小早川隆景の部隊を伏兵で撃退した<ref>朝鮮史編修会 編『朝鮮史. 第四編第九巻』〈朝鮮総督府〉530頁</ref>。
*7月30日、'''[[清州の戦い]]'''。この頃、日本軍の一部部隊が清州に向かって進撃していたが、防禦使[[李沃]]の朝鮮軍は逃走し、日本軍が清州城を占領した。朝鮮の義兵[[趙憲]]と[[霊圭]]は2,600の兵を集め、7月30日、清州城を攻めたが、日本軍に撃退され、趙憲ら朝鮮軍は後退して城の西の高地に陣を布いた。この夜、日本軍は多数の敵を警戒して、その夜密かに城を出て退却した。翌日、趙憲らは城に入った{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=183}}。
*8月9日、'''[[梁丹山の戦い]]'''。立花宗茂が南平県監[[韓楯]]500兵を撃退<ref>中野等『文祿・慶長の役』〈吉川弘文館〉83頁</ref>。
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*10月6-10日、'''晋州城の戦い'''(第一次[[晋州城攻防戦]])。日本軍は、釜山西方の制圧を画策して、[[晋州城攻防戦|晋州城]]の攻略を図る([[細川忠興]]指揮の日本軍対[[金時敏]]指揮の朝鮮軍)が、朝鮮軍が防衛に成功した<ref group="注">この戦闘は[[閑山島海戦]](1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・[[幸州山城攻防戦]](1593年2月、[[宇喜多秀家]]指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)と合わせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。</ref>。朝鮮軍指揮官[[金時敏]]は日本軍の鉄砲によって重傷を負い、攻防戦の後に傷の悪化によって死亡した。
 
*12月7-14日、'''第三次星州城の戦い'''。[[金ミョン|金沔]]率いる5,000の朝鮮軍が星州城を包囲するが、日本軍に撃退される。
 
=== 朝鮮水軍の動向 ===