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<!-- 以下テンプレート -->
{{世界の市
|正式名称 = サラエヴォ
|公用語名称 = {{lang|bs|Sarajevo}}<br />{{lang|hr|Sarajevo}}<br />{{lang|sr|Сарајево}}
|愛称 =
|標語 =
|画像 = TE-Collage Sarajevo.png
|画像サイズ指定 = 250px
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|市旗 = Flag of Sarajevo.svg
|市章 = Coat of arms of Sarajevo.svg
|位置図 = LocationBosniaAndHerzegovina.svg
|位置図サイズ指定 = 250px
|位置図の見出し = [[ヨーロッパ]]における[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の位置
|位置図2 = Location Sarajevo.svg
|位置図サイズ指定2 = 250px
|位置図の見出し2 = [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]におけるサラエヴォの位置
|緯度度 = 43 |緯度分 = 52|緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 18 |経度分 = 25|経度秒 = |E(東経)及びW(西経) = E
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|下位区分名1 = {{Flagcountry|FBiH}}
|下位区分種類2 = [[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県|県]]
|下位区分名2 = [[ファイル:Flag of Sarajevo Canton.svg|border|25px]] [[サラエヴォ県]]
|下位区分種類3 =
|下位区分名3 =
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|下位区分名4 =
|規模 = 都市
|最高行政執行者称号 = 市長
|最高行政執行者名 = イヴォ・コムシッチ
|最高行政執行者所属党派 = ボスニア・ヘルツェゴビナ社会民主連合
|総面積(平方キロ) = 141.5
|総面積(平方マイル) =
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|水面面積(平方キロ) =
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|水面面積比率 =
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|市街地面積(平方マイル) =
|都市圏面積(平方キロ) =
|都市圏面積(平方マイル) =
|標高(メートル) = 500
|標高(フィート) = 1,640
|人口の時点 = 2011年8月31日 推計
|人口に関する備考 =
|総人口 = 311,161<ref name=FZSsaopcenja>{{cite web
|publisher = Federal Office of Statistics, Federation of Bosnia and Herzegovina
|url = http://www.fzs.ba/saopcenja/2011/14.2.1.pdf
|title = First release
|page = 3
|date = 31 August 2011
|accessdate = 31 August 2011
}}</ref>
|人口密度(平方キロ当たり) = 2,202.9
|人口密度(平方マイル当たり) = 5,705
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|市街地人口密度(平方キロ) =
|市街地人口密度(平方マイル) =
|都市圏人口 = 438,757
|都市圏人口密度(平方キロ) =
|都市圏人口密度(平方マイル) =
|等時帯 = [[中央ヨーロッパ標準時]]
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|夏時間の等時帯 = [[中央ヨーロッパ夏時間]]
|夏時間の協定世界時との時差 = +2
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|公式ウェブサイト = [http://www.sarajevo.ba/en/ www.sarajevo.ba/en/]
|備考 = <ref name=FZSgode>{{cite web
|publisher = Federal Office of Statistics, Federation of Bosnia and Herzegovina
|url = http://www.fzs.ba/Eng/gode.htm#POPULATION
|title = Estimation total number of present population by age, sex and cantons and municipality, 30 June 2007
|accessdate = 2008-04-03
}}</ref>
}}
<!--以上テンプレート -->
 
'''サラエヴォ'''<ref name="kagami">{{Cite book|和書
|author = [[加賀美雅弘]]、[[木村汎]]
|year = 2007
|title = 朝倉世界地理講座10 東ヨーロッパ・ロシア
|publisher = 朝倉書店
|id = ISBN 978-4-254-16800-6
}}</ref><ref name="watanabe">
{{Cite book|和書
|author = [[渡辺一夫]]
|date = 1980年(昭和55年)
|title = 世界地誌ゼミナールIII ソ連・東欧
|publisher = 大明堂
}}</ref><ref name="koujien">{{Cite book|和書
|year=2008
|title=[[広辞苑]]第六版
|publisher=[[岩波書店]]
}}</ref>([[ボスニア語]]:{{lang|bs|Sarajevo}} {{IPA-sh|sǎrajeʋo|}}、[[クロアチア語]]:{{lang|hr|Sarajevo}}、[[セルビア語]]:{{lang|sr|Сарајево}})は、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつである[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]の首都でもある。
 
日本語表記においては、一般に「'''サラエボ'''」<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bosnia_h/data.html 外務省: ボスニア・ヘルツェゴビナ]</ref>や「'''サライェヴォ'''」<ref name="kodansha">
{{Cite book|和書
|year = 1975
|title = 文化誌 世界の国 東欧
|publisher = 講談社
}}</ref>などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする。''[[#呼称と表記|呼称と表記]]も参照'')。
 
2011年8月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナの[[サラエヴォ県]]に属する4つの自治体の人口は併せて311,161人である。サラエヴォはまた、[[サラエヴォ県]]の県都でもある。サラエヴォは[[ボスニア]]地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、[[ディナール・アルプス]]に取り囲まれ、[[ミリャツカ川]]周辺に広がっている。サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、[[イスラム教]]、[[正教会]]、[[カトリック教会]]、[[ユダヤ教]]が何世紀にもわたって共存してきた<ref>Malcolm, Noel. Bosnia: A Short History. ISBN 0-81475-561-5.</ref>。旅行ガイドブックの[[ロンリープラネット]]では、「世界の都市」ランキングにおいてサラエヴォを43位にランクしている。これは、同じ旧ユーゴスラビア諸国の観光都市である[[ドゥブロヴニク]]の59位、[[リュブリャナ]]の84位、[[ブレッド]]の90位、[[ベオグラード]]の113位、[[ザグレブ]]の135位を上回る<ref>http://www.amazon.co.uk/Cities-Book-Lonely-Planet-Pictorial/dp/1741047315</ref>。
 
サラエヴォに隣接して、ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつである[[スルプスカ共和国]]の首都である[[イストチノ・サラエヴォ]](東サラエヴォ)がある。現在のイストチノ・サラエヴォの市域には、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]前のサラエヴォの市域の一部が含まれている。
 
この地域に人が居住を始めたのは[[先史時代]]にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは[[15世紀]]の[[オスマン帝国]]の統治下でのことであった<ref>Valerijan, Žujo; Imamović, Mustafa; Ćurovac, Muhamed. Sarajevo.</ref>。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に併合されたのちも[[ボスニア]]の州都と位置付けられたサラエヴォは、近代以降の何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。[[1914年]]にはこの地は[[サラエボ事件|オーストリア帝位継承者の暗殺事件]]の現場となり、この事件によって[[第一次世界大戦]]が引き起こされた。[[1984年]]にはサラエヴォは[[サラエボオリンピック|1984年冬季オリンピック]]の会場となり、さらに後の[[ユーゴスラビア紛争|ユーゴスラビア崩壊]]のときには、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]において数年間にわたる[[サラエヴォ包囲|セルビア人勢力による包囲]]を受けた。現在のサラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている<ref>Kelley, Steve. [http://seattletimes.nwsource.com/html/sports/2003174149_kell04.html Rising Sarajevo finds hope again]. [[シアトル・タイムズ|The Seattle Times]]. Retrieved on 19 August 2006.</ref>。サラエヴォは[[ヨーロッパ]]で初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の[[路面電車]]が運行された町である<ref group="*">終日運行の路面電車の世界初は[[アメリカ合衆国]]の[[サンフランシスコ]]であった。 [http://www.amazon.co.uk/Cities-Book-Lonely-Planet-Pictorial/dp/1741047315] Lonely Planet: Best Cities in the World</ref>。
 
== 呼称と表記 ==
町はボスニア・ヘルツェゴビナの3つの公用語・ボスニア語、セルビア語、クロアチア語で'''サラエヴォ''' ({{lang|bs|Sarajevo / Сарајево}}) と呼ばれる。また、トルコ語では'''サライボスナ''' ({{lang|tr|Saraybosna}}) と呼ばれている。サラエヴォの呼称は、トルコ語で「宮殿」を意味する「'''サライ'''」({{lang|tr|Saray}}) を語源としており<ref name="fukano">http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/tur/theses/2001/fukano.pdf</ref>、この街が[[オスマン帝国]]支配下にあったころから重要な都市であることを示唆している。日本語においては、「'''サラエヴォ'''」という[[カタカナ表記|表記]]の他にも、「'''サラェヴォ'''」、「'''サライェヴォ'''」(原音ベース)、「'''サライエヴォ'''」、「'''サラエボ'''」(簡略化)、「'''サラェボ'''」、「'''サライェボ'''」、「'''サライエボ'''」<ref name="sekaidai">{{Cite book|和書
|title = [[世界大百科事典]]
|publisher = [[平凡社]]
}}</ref>といった表記も見られる。
 
== 地理と気候 ==
=== 地理 ===
[[ファイル:Sarajevo SPOT 1050.jpg|thumb|250px|サラエヴォの衛星写真]]
[[ファイル:Sarajevo topographic map.svg|thumb|250px|サラエヴォの地形]]
サラエヴォは、三角形をしたボスニア・ヘルツェゴビナの幾何学的中心に近く、{{coord|43|52|0|N|18|25|0|E}}に位置している。サラエヴォはサラエヴォ渓谷の中にあり、[[ディナール山脈]]に取り囲まれている。渓谷は大規模に緑に覆われていたものの、[[第二次世界大戦]]後の開発と都市拡大の中で失われていった。サラエヴォの町は濃厚な森林に覆われた丘陵地と5つの山に囲まれている。周囲を囲んでいる山々の頂上はそれぞれ、[[トレスカヴィツァ山]]の標高2088メートル、[[ビェラシュニツァ山]]の標高2067メートル、[[ヤホリナ山]]の標高1913メートル、[[トレベヴィチ山]]の標高1627メートル、最も低い[[イグマン山]]で標高1502メートルとなっている。これらの山々のうち、トレスカヴィツァを除く4つは[[サラエボオリンピック|1984年の冬季オリンピック]]の会場となった。サラエヴォの平均標高は500メートル程度である。町は丘陵地帯の中にあり、勾配の急な斜面の通りや、高い丘に立ち並ぶ住宅などにその特徴を見ることができる。
 
[[ミリャツカ川]]は町の重要な地理的特徴となっている。川は町の東から流れ込み、町の中央を通って西へと抜け、[[ボスナ川]]へと合流している。ミリャツカ川は「サラエヴォの川」であり、その源流はサラエヴォの東数キロメートル先にある[[パレ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|パレ]]にある。ボスナ川の源泉、[[ヴレロ・ボスネ]]はサラエヴォ西部の[[イリジャ]]の近くにあり、こちらもサラエヴォの重要な地理的特徴となっている。ヴレロ・ボスネは、サラエヴォやその他の地域からの観光客の訪問先ともなっている。その他にも複数の小さな川が町やその郊外を流れている。
 
=== 町のつくり ===
ボスニア・ヘルツェゴビナは南東ヨーロッパに位置しており、その首都であるサラエヴォは[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の三角形の国土の幾何学的中心に近い。サラエヴォは、[[サラエヴォ県]]に属する4つの基礎自治体([[オプシュティナ]])、[[ツェンタル (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ツェンタル]]、[[ノヴィ・グラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦)|ノヴィ・グラード]]、[[ノヴォ・サラエヴォ]]、[[スタリ・グラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|スタリ・グラード]]からなる。サラエヴォ都市圏にはこのほかに[[イリジャ]]、[[ヴォゴシュチャ]]なども含まれる。都市圏面積は141.5平方キロメートルに上る。
 
また、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争前はサラエヴォの一部をなしていた地域の一部は、紛争後に[[スルプスカ共和国]]に編入され、[[イストチノ・サラエヴォ]]の一部となっている。
{{wide image|Sarajevo_panorama.jpg|1000px|サラエヴォ市街}}
 
=== 気候 ===
サラエヴォは温暖な[[大陸性気候|大陸性の気候]]であり、北は中央ヨーロッパ、南は地中海の気候区分の間に位置している。[[ケッペンの気候区分]]によれば、サラエヴォは[[亜寒帯湿潤気候]]と[[西岸海洋性気候]]のちょうど境目に位置している。年間平均気温は摂氏9.5度であり、1年で最も寒くなる1月には平均-1.3度、最も暑くなる7月には平均19.1度に達する。観測史上では1946年8月19日には最高気温40.0度に達した一方、[[1942年]]1月25日には最低気温の-26.4度に達した。平均的に、サラエヴォでは一年に68回の夏日(気温が摂氏30度以上に達する日)がある。町の典型的な気候はうす曇であり、年間平均の[[雲量]]は59%である。最も曇っている月は12月であり、雲量75%となる。逆に最も晴れている月は8月であり、雲量37%である。降水は年間を通して常にある。平均的に、年間170日は雨が降る。サラエヴォは、この地方で盛んな[[ウィンタースポーツ]]に適した気候であり、[[サラエボオリンピック|1984年冬季オリンピック]]の会場となった。
{{Weather box
|location = サラエヴォ
|metric first = y
|single line = y
|Jan high C = 2.7
|Feb high C = 5.9
|Mar high C = 10.4
|Apr high C = 15.1
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|Jun high C = 23.1
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|Sep high C = 22.0
|Oct high C = 16.5
|Nov high C = 9.7
|Dec high C = 3.5
|Year high C = 15.0
 
|Jan mean C = &minus;0.9
|Feb mean C = 1.5
|Mar mean C = 5.1
|Apr mean C = 9.4
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|Jun mean C = 17.0
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|Aug mean C = 18.5
|Sep mean C = 15.1
|Oct mean C = 10.4
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|Dec mean C = 0.3
 
|Jan low C = &minus;4.4
|Feb low C = &minus;2.3
|Mar low C = 0.7
|Apr low C = 4.4
|May low C = 8.5
|Jun low C = 11.4
|Jul low C = 12.8
|Aug low C = 12.6
|Sep low C = 9.7
|Oct low C = 5.7
|Nov low C = 1.6
|Dec low C = &minus;2.8
|Year low C = 4.8
 
|precipitation colour = green
|Jan precipitation mm = 71.4
|Feb precipitation mm = 67.0
|Mar precipitation mm = 70.3
|Apr precipitation mm = 73.6
|May precipitation mm = 81.7
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|Jan sun = 55.8
|Feb sun = 84.8
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|Apr sun = 153.0
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|Jun sun = 207.0
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|unit precipitation days = 1.0 mm
|Jan precipitation days = 10
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|Dec precipitation days = 11
 
|source 1 = HKO<ref name="HKO Sarajevo" >
{{cite web
|url=http://www.weather.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/europe/iy_al/sarajevo_e.htm
|title=Climatological Information for Sarajevo, Bosnia and Herzegovina
|publisher=Hong Kong Observatory
|accessdate=2010-09-08}}</ref>
|date=September 2010
}}<noinclude>
 
{{Template reference list}}
</noinclude>
 
== 歴史 ==
[[ファイル:sarajevo11.jpg|thumb|right|[[サラエヴォ事件]]を記念するプレート]]
 
=== 古代・中世 ===
サラエヴォ渓谷には、[[ブトミル文化]]が栄えた先史時代にさかのぼる長く豊かな歴史がある。[[ローマ帝国]]に征服される前は、複数の[[イリュリア人]]の集落がこの地域にあった<ref>Tourism Association of Sarajevo Canton. [http://www.sarajevo-tourism.com/eng/sarajevothroughhistory.wbsp The Culture & History.] World Weather - Average Conditions. Retrieved on 3 August 2006.</ref>。
 
ローマ帝国統治時代、町の名前は'''アクアエ・スルプラエ'''(Aquae Sulphurae、硫黄温泉)と呼ばれ、現代のサラエヴォの郊外の町[[イリジャ]]にあった<ref>Bosnia and Herzegovina Commission to Preserve National Monuments. [http://www.aneks8komisija.com.ba/main.php?id_struct=50&lang=4&action=view&id=2498 II – PROCEDURE PRIOR TO DECISION.] Roman remains at Ilidža, the archaeological site - Elucidation. Retrieved on 3 August 2006.</ref>。ローマ帝国に次いで、7世紀には[[ゴート族]]、次いで[[スラヴ人]]が進入した<ref name="Brit">New Britannica, volume 10, edition 15 (1989). ''Sarajevo''. ISBN 0-85229-493-X.</ref>。町は'''ヴルフ=ボスナ'''(Vrh-Bosna)と呼ばれ、スラヴ人の[[城塞]]として[[1263年]]から、町が[[オスマン帝国]]に征服される[[1429年]]まで存続した<ref>The [[コロンビア百科事典|Columbia Encyclopedia]], edition 6. [http://www.bartleby.com/65/sa/Sarajevo.html Sarajevo.] Retrieved on 3 August 2006.</ref>。
 
=== 近世 ===
[[1461年]]、オスマン帝国の{{仮リンク|ルメリア・エヤレト|en|Rumelia Eyalet|label=ルメリア州}}(1365–1867)のヴルフ=ボスナ(Vrhbosna)に、[[:sr:Скопско крајиште]]知事(パシャルク)の{{仮リンク|イーサ=ベグ・イサコヴィッチ|en|Isa-Beg Isaković}}([[:en:Isa-Beg Isaković|Isa-Beg Isaković]])は、町を建設して{{仮リンク|ボスニア・サンジャク|sr|Босански санџак|en|Sanjak of Bosnia}}(1463–1878)を置いた。彼の統治下で、町は大きく発展した。1461年以降、イーサ=ベグ・イサコヴィッチは町の[[スタリ・グラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|旧市街]]の建設を監督し、水の供給システムや[[モスク]]、屋根つきの[[バザール]]、[[ハンマーム|公衆浴場]]、知事宮殿なども作られた。町は'''ボスナ・サライ'''(Bosna-Saraj)と名づけられ、大都市へと成長した。この地方は、[[トルコ語]]で「宮殿のある平地」を意味するサライ・オヴァス({{lang|tr|saray ovası}})と呼ばれた<ref name="fukano" />。
 
[[ガジ・フスレヴ=ベグ]]([[:en:Gazi Husrev-beg|Gazi Husrev-beg]])は1521年、ボスニア州の2代目の知事に就任し、町で最初の図書館、[[マドラサ]]、[[スーフィズム]]の学校、サハト・クラ時計塔(Sahat Kula)などを建設した。[[1580年]]、{{仮リンク|ボスニア・エヤレト|en|Bosnia Eyalet|label=ボスニア州}}(1580–1867)となる。
 
[[1697年]]、[[大トルコ戦争]]の間、[[ハプスブルク君主国]]の[[プリンツ・オイゲン]]による襲撃によってサラエヴォは制圧され、町には疫病がもたらされるとともに焼き払われた。町は後に再建に向かったものの、完全に復旧されることはなかった。オスマン帝国は[[1850年]]、サラエヴォを重要な行政の拠点としたものの、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に征服され、[[1878年]]に[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]によって{{仮リンク|共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|en|Bosnia and Herzegovina in Austria-Hungary}}({{lang|en|Condominium of Bosnia and Herzegovina}}、[[1878年]] - [[1918年]])の統治権はオーストリア=ハンガリー帝国へと移された。ボスニア・ヘルツェゴビナは[[1908年]]にオーストリア=ハンガリー帝国に併合された。町は、[[路面電車]]などの新しい開発を[[ウィーン]]に導入する前の試験導入に使用された<ref name=Brit/><ref>FICE (International Federation of Educative Communities) Congress 2006. [http://www.fice-congress2006.org/french/index.php?option=com_content&task=view&id=33&Itemid=6 Sarajevo - History.] Congress in Sarajevo. Retrieved on 3 August 2006.</ref>。
 
=== 近代 ===
[[第一次世界大戦]]のきっかけとなった[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]とその妻[[ゾフィー・ホテク]]に対する[[サラエヴォ事件|暗殺事件]]は[[1914年]][[6月28日]]に、[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}の民族主義者[[ガヴリロ・プリンツィプ]]によって、サラエヴォにて引き起こされた。戦争に突入すると、バルカン半島での攻勢の多くは[[ベオグラード]]周辺で起き、サラエヴォは戦時中、大規模な破壊を免れた。第一次世界大戦が終わると、バルカン半島西部は[[ユーゴスラビア王国]]のもとに統合され、サラエヴォは{{仮リンク|ドリナ・バノヴィナ|en|Drina Banovina|label=ドリナ州}}(1929–1941)の州都となった。
 
[[1939年]]に[[ユーゴスラビア王国]]は{{仮リンク|バノヴィナ・クロアチア|sh|Banovina Hrvatska|en|Banovina of Croatia|label=クロアチア自治州}}を作っていたが、1941年4月1日の[[ウスタシャ]]によるザグレブの蜂起で[[クロアチア独立国]](1941–1945)建国宣言が発され、サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナの領土は、クロアチア独立国の領土に編入された。[[1941年]][[4月8日]]、[[ナチス・ドイツ]]は[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアに侵攻]]し、サラエヴォを爆撃した。この時、およそ10,500人のユダヤ人、ならびに[[ロマ]]、正教徒の[[セルビア人]]が居住していた。
 
[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]に率いられた[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]による抵抗によって、[[1945年]][[4月6日]]にサラエヴォはナチスによる占領から解放された。その後、サラエヴォは急速に発展し、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]における地域の産業の拠点となった。[[1945年]]の都市一般開発計画の一部として、サラエヴォ西部にて現代へと続く町の区画が策定され、サラエヴォの都市域が拡大された。サラエヴォの成長がピークを迎えたのは[[1980年代]]の初期の、サラエヴォで冬季オリンピックが開催されたときであった<ref>Sachs, Stephen E. (1994). [http://www.stevesachs.com/papers/paper_sarajevo.html Sarajevo: A Crossroads in History.] Retrieved on 3 August 2006.</ref>。
 
=== ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ===
{{main|サラエヴォ包囲}}
 
[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]における[[サラエヴォ包囲]]は、現代の戦争の中で最も長期にわたる都市包囲であった。包囲していたのはセルビア人勢力([[スルプスカ共和国]])の[[スルプスカ共和国軍]] (VRS) と、[[ユーゴスラビア人民軍]] (JNA) であり、1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。
 
サラエヴォ包囲は、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]の間に発生した都市包囲であり、ユーゴスラビアからの独立を宣言し、新しく組織されたばかりの[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]政府の軍([[ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍]]; ARBiH)に対して、ボスニアの[[セルビア人]]の武装勢力(スルプスカ共和国軍)は丘の上に陣取ってサラエヴォを包囲した。セルビア人勢力は、新たに独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナへの参加を拒否し、セルビア人による国家・[[スルプスカ共和国]]の樹立を目指していた<ref name="sahara">
{{Cite book|和書
|author = [[佐原徹哉]]
|year = 2008
|title = ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化
|publisher = 有志舎
|id = ISBN 978-4-903426-12-9
}}</ref>。
 
その結果として、大規模な破壊と人的な被害を生み出した。包囲戦の過程で、12000人以上が殺害され、50000人以上が負傷したものと推測されている。死傷者の85%は軍人ではない市民であった。多くの市民が殺害されたり、移住を余儀なくされたことにより、[[1995年]]の時点での人口は紛争前の64%に相当する334,663人にまで減っていた<ref>[http://www.cseecunion.org/HistoryOfCities/Sarajevo.html History of Sarajevo]</ref>。多くの市民が包囲された町から地下トンネル等を使って脱出した。また、サラエヴォのセルビア人市民の中には、セルビア人勢力支配地域へ逃げ込む者もいた<ref name="sahara" />。他方で、セルビア人勢力の占領下となった地域では、[[ボシュニャク人]]([[ムスリム人]])を主体とする非セルビア人の市民が殺害されたり、強制的に追放されるといった[[民族浄化]]が行われた<ref name="sahara" />。
 
[[2003年]]1月、[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]の法廷では、スルプスカ共和国軍のサラエヴォ=ロマニヤ軍団の第一司令官であったスタニスラヴ・ガリッチ([[:en:Stanislav Galić|Stanislav Galić]])は、サラエヴォに対する包囲と恐怖狙撃によって、[[人道に対する罪]]の罪を認定され、終身刑を言い渡された<ref>[http://www.un.org/icty/cases-e/cis/galic/main-e.htm Galić: Crimes convicted of]</ref>。罪状の中には、第1次[[マルカレ虐殺]]での罪も含まれていた<ref>[http://www.un.org/icty/galic/trialc/judgement/gal-tj031205-1.htm#IIIC2 Galić verdict- 2. Sniping and Shelling of Civilians in Urban Bosnian Army-held Areas of Sarajevo]</ref>。[[2007年]]、ガリッチに代わってサラエヴォ=ロマニヤ軍団の指揮官となったセルビア人の将軍、[[ドラゴミル・ミロシェヴィッチ]]([[:en:Dragomir Milošević|Dragomir Milošević]])は、第2次[[マルカレ虐殺]]を含む、サラエヴォの包囲と市民への恐怖狙撃によって有罪を認定され、懲役33年を言い渡された。法廷では、マルカレ市場は[[1995年]][[8月28日]]に、サラエヴォ=ロマニヤ軍団の地点から120mm迫撃砲弾で砲撃されたものと認定された<ref>[http://www.sense-agency.com/en/stream.php?sta=3&pid=10670&kat=3 SENSE - DRAGOMIR MILOSEVIC SENTENCED TO 33 YEARS]</ref>。
 
=== ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後 ===
サラエヴォの復興開発は[[デイトン合意]]が結ばれた[[1995年]]11月以降に始まった。
 
[[2003年]]の時点で、町のほとんどの部分は再興されるか再開発され、紛争による目に見える破壊された建物の痕跡は町の中心ではわずかとなった。[[第二次世界大戦]]時に使用された砲弾筒が発掘され、サラエヴォにて洗浄・装飾され、工芸品として売られている。現代的なオフィス・ビルディングや高層建築物が各地で建設されている<ref>{{cite web<!---Please leave as cite web. The address does not render properly without it.--->
|url = http://lnweb18.worldbank.org/oed/oeddoclib.nsf/DocUNIDViewForJavaSearch/88FEAEA11A67B15085256F0300637B0F/$file/bosnia_cae_reach.pdf
|title = Bosnia and Herzegovina Country Assistance Evaluation
|accessdate=2006-08-03
|author = World Bank Operations Evaluation Department
|date = 2004-09-02
|format = PDF
|work = OED Reach
}}</ref>。
 
<gallery>
ファイル:Sarajevo_jewish_synagogue.JPG|ユダヤ教の[[シナゴーグ]]、[[サラエヴォ・シナゴーグ]] ([[:en:Sarajevo Synagogue|Sarajevo Synagogue]])。
ファイル:Sarajevo ortodox church.JPG|[[セルビア正教会]]のサラエヴォ大聖堂([[生神女誕生大聖堂 (サラエヴォ)|生神女誕生大聖堂]])
ファイル:JesusesHearthCathedral.jpg|[[カトリック教会]]ののサラエヴォ大聖堂([[イエスの聖心大聖堂]])
ファイル:Sarajevo Ferhad-begova-Mosque02.jpg|フェルヘド=ベゴヴァ・モスク (Ferhad-begova)。サラエヴォにある168のイスラム教のモスクのうちの一つ
</gallery>
 
== 政治 ==
[[File:Sarajevo municipalities.PNG|thumb|サラエヴォを構成するサラエヴォ県内のツェンタル、ノヴィ・グラード、ノヴォ・サラエヴォ、スタリ・グラードの4つの自治体]]
[[ファイル:Greece–Bosnia_and_Herzegovina_Friendship_Building.jpg|thumb|175px|ボスニア・ヘルツェゴビナ政府庁舎]]
サラエヴォは[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の首都である。また、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちの1つである[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]の首都でもあり、また[[サラエヴォ県]]の県都でもある([[イストチノ・サラエヴォ]])。また、ボスニア・ヘルツェゴビナのもう1つの構成体である[[スルプスカ共和国]]の法律上の首都でもある(スルプスカ共和国の事実上の首都は[[バニャ・ルカ]]である)。国家、構成体、県はそれぞれ独自の議会と裁判所をサラエヴォの町の中に持っている。これに加えて、多くの外国の[[在外公館]]がサラエヴォに置かれている。
 
サラエヴォは4つの基礎自治体([[オプシュティナ]])からなっており、それぞれの自治体は独自の自治体政府を持っている。4つの自治体はまた、合同で独自の憲法を持ったサラエヴォ市政府を構成している。サラエヴォの行政府 ({{Lang|bs|Gradska Uprava}}) は1人の市長と2人の副市長、そして内閣によって構成されている。立法府は市議会 ({{lang|bs|Gradsko Vijeće}}) である。市議会には28人のメンバーがいて、うち1人の議長、2人の副議長、1人の書記官を含む。議員はそれぞれの自治体から、概ね人口比率に従って選出される。市政府にはまた司法府もあり、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表]]の「上級司法検察委員会」で定められた紛争後の法体系に基づいている<ref>Government of Sarajevo on [http://www.sarajevo.ba/en/stream.php?kat=136 Sarajevo Official Web Site]</ref>。
 
サラエヴォを構成する基礎自治体は、更に地域共同体 ({{lang|bs|Mjesne zajednice}}) に分かれている。地域共同体はサラエヴォの行政のごく一部を担っており、一般市民が市の行政に参加する機会を持たせることをその主目的としている。地域共同体は街の街区を基盤としている。
 
[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の議会はサラエヴォにおかれており、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]において大きな損害を受けている。その損害の影響で、業務を遂行するために、人員や文書は付近にある地上階のオフィスに移動された。議会の復興は2006年末に始められ、2007年に完了した。復興費用の80%はギリシャ・バルカン復興プログラム(ESOAV)を通してギリシャ政府から拠出され、20%はボスニア・ヘルツェゴビナ政府が負担した。
 
== 経済 ==
[[ファイル:SarajevoHolidayInn.JPG|thumb|イヴァン・ストラウス (Ivan Strauss) による建築、ホリデー・イン・サラエヴォ(The Holiday Inn Sarajevo、1983年)]]
[[ファイル:Turbe Gazi Husrev-bega.jpg|thumb|240px|left|ガジ・フスレヴ=ベグ([[:en:Gazi Husrev-beg|Gazi Husrev-beg]])の墓。]]
[[ファイル:SarajevskaPivaraBrewery.jpg|thumb|サラエヴォ・ビール醸造所(Sarajevska Pivara)]]
 
紛争後の年月がたつと、サラエヴォの経済は復興・回復プログラムの対象となった<ref>European Commission & World Bank. [http://www.seerecon.org/bosnia/ec/sectors/sarajevo.htm The European Community (EC) Europe for Sarajevo Programme] The EC reconstruction programme for Bosnia and Herzegovina detailed by sector. Retrieved on 5 August 2006.</ref>。サラエヴォの経済拠点のうち、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行]]は1997年にサラエヴォで開業し、[[サラエヴォ証券取引所]]は2002年に取引を開始した。サラエヴォの重要な生産、行政、観光産業は、巨大な[[地下経済]]に結びついている<ref>CIA (2006). [https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/bk.html Bosnia and Herzegovina] CIA World Factbook. Retrieved on 5 August 2006.</ref>。サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナで最大の経済活動の拠点となっている。
 
共産主義時代、サラエヴォは重要な産業の中心地であった。紛争後のサラエヴォの生産業には、タバコ、家具、衣類、自動車、通信機器などがある<ref name=Brit/>。サラエヴォに本社を置く会社には、[[B&H航空]]、BHテレコム([[:en:BH Telecom|BH Telecom]])、ボスマル([[:en:Bosmal City Center|Bosmal City Center]])、ボスナリイェク([[:en:Bosnalijek|Bosnalijek]])、エネルゴペトロル([[:en:Energopetrol|Energopetrol]])、サラエヴォ・タバコ製造([[:en:Sarajevo Tobacco Factory|Sarajevo Tobacco Factory]])、サラエヴォ・ビール醸造所([[:en:Sarajevska Pivara|Sarajevska Pivara]])などがある。これらはいずれも、ボスニア・ヘルツェゴビナで業界最大手の企業である。ユーゴスラビア時代の1981年当時、サラエヴォのGDPはユーゴスラビア平均の133%であった。<ref>{{cite book |title=Atlas svijeta: Novi pogled na Zemlju |year=1984 |edition=3rd |publisher=Sveučilišna naklada Liber |location=Zagreb |language=Croatian |editor1-first=Radovan |editor1-last=Radovinović |editor2-first=Ivan |editor2-last=Bertić}}</ref>2011年現在、サラエヴォのGDPはボスニア・ヘルツェゴビナ中央銀行によるとおよそ167億6000万ドルのボスニア・ヘルツェゴビナの[[国内総生産|GDP]]の37%を占めている。<ref>http://www.unece.org/.html</ref>
 
また、観光もサラエヴォの経済において重要な産業となっている。サラエヴォの観光客数は2011年には256,628人を記録し、2010年との比較では10.8%伸びており延べ宿泊日数は504,929日でこちらは2010年との比較では12.9%の伸びであった。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内からの観光客が20.3%を占め、国外からの観光客が79.7%を占めている。国外からの観光客のうち、一番大きな割合を占めるのはクロアチアからの観光客で17.9%を占め、次いでトルコが12.3%、スロベニアが7.4%、セルビアが5.5%、ドイツが4.4%であった。アメリカやイギリスからの観光客数も大きく伸びている。<ref>{{cite web|url=http://www.vijesti.ba/vijesti/bih/67677-Kanton-Sarajevo-Vise-turista-2011.html |title=Kanton Sarajevo: Više turista u 2011 |publisher=Vijesti.ba |date= |accessdate=2013-03-12}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.fzs.ba/god.htm |title=Statistički Godišnjaci/Ljetopisi |publisher=Fzs.ba |date= |accessdate=2013-03-12}}</ref>
 
== 観光 ==
サラエヴォは前述の通り観光産業が盛んである。2006年の[[ロンリープラネット]]の「世界の都市」ランキングでは、43位にランクインしている<ref>Lonely Planet (March 2006). The Cities Book: A Journey Through The Best Cities In The World. Lonely Planet Publications, ISBN 1-74104-731-5.</ref>。
 
スポーツ関連の観光産業では、かつての[[サラエボオリンピック|1984年冬季オリンピック]]の設備、特に、付近の[[ビイェラシュニツァ山]]、[[イグマン山]]、[[ヤホリナ山]]、[[トレベヴィチ山]]、[[トレスカヴィツァ山]]のスキー施設を用いている。
 
サラエヴォの歴史や文化は、東西それぞれの帝国の影響を強く受けており、サラエヴォ観光の魅力となっている。サラエヴォは数世紀にわたって旅行者を受け入れ続けている。これは、サラエヴォが[[オスマン帝国]]と[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の交易の拠点であったことによる。
 
サラエヴォの観光のみどころの一例を挙げれば、ボスナ川の源泉がある[[ヴレロ・ボスネ]]公園、カトリック教会の[[イエスの聖心大聖堂]]、[[ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク]]([[:en:Gazi Husrev-beg's Mosque|Gazi Husrev-beg's Mosque]])などがある。サラエヴォの観光産業は主に歴史的、宗教的、そして文化的な要素に基づくものである。
 
=== ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール ===
[[ファイル:Sarajevo Gazi-Husrev-Beg-Basar01.jpg|right|thumb|250px|屋根のついた[[バザール]]]]
ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール([[:bs:Gazi Husrev-begov bezistan|Gazi Husrev-begov bezistan]])は、[[1542年]]から[[1543年]]にかけてガジ・フスレヴ=ベグによって建設された、屋根で覆われた市場である<ref name="city official tourist info">{{Cite web
|author=Sarajevo City Official Website
|url=http://www.sarajevo.ba/en/stream.php?kat=157
|title=Sarajevo Official Web Site : Touristic attractions
|publisher=Sarajevo City Government
|language=英語
|accessdate=2008-11-11
}}</ref>。設計に携わったのは[[ドゥブロヴニク|ラグーサ]]の職人たちである。長さ109メートルにわたって、50を超える店舗が立ち並んでいる。
 
=== ガジ・フスレヴ=ベグ・モスク ===
<gallery widths="200px" heights="200px">
ファイル:Sarajevo Begova Mosque 1900.jpg|1900年ごろに描かれたガジ・フスレヴ=ベグ・モスク。
ファイル:Dvoriste Begove dzamije.jpg|モスクの庭の様子
</gallery>
ガジ・フスレヴ=ベグ・モスクは、[[ガジ・フスレヴ=ベグ]]([[:en:Gazi Husrev-beg|Gazi Husrev-beg]])によって[[1531年]]に建てられたモスクであり、美しい[[オスマン建築]]の建築物である
<ref name="city official tourist info" />。モスクを設計したのは[[ミマール・スィナン]]であり、スィナンは[[ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ヴィシェグラード]]の[[ソコルル・メフメト・パシャ橋]]や、[[イスタンブール]]の[[スレイマニエ・モスク]]を設計した人物である。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のとき、モスクはボシュニャク人の象徴として攻撃対象とされ、[[サラエヴォ包囲]]ではガジ・フスレヴ=ベグ・モスクも大きく損傷を受けた。紛争終結後の[[1996年]]から修復が始まった。しかしながら、このときの修復資金には[[サウジアラビア]]からのものが多く、修復に際しては[[ワッハーブ派]]の影響を受けた。修復後のモスクからは色彩や装飾的な要素は取り払われ、白を基調とした質素なつくりとなった<ref>{{Cite web
|author=The Turkish Times
|url=http://www.theturkishtimes.com/archive/02/01_15/culture.html
|title=Erasing Culture: Wahhabism, Buddhism, Balkan Mosques "Wahhabism is an extreme minority in Islam"
|publisher=The Turkish Times
|language=英語
|accessdate=2008-11-11
}}</ref>。[[2000年]]から、モスクを紛争前の姿に戻すための、完全な修復の作業が始まった。単に「ベグのモスク」(Begova džamija)とも通称される。
 
=== バシュチャルシヤ ===
<gallery widths="200px" heights="200px">
ファイル:Baščaršija 2006.jpg|バシュチャルシヤの様子。左に写っているのはセビリ
ファイル:Bascarsija.jpg|バシュチャルシヤの町並み。中央はブルサ・バザール
File:Cevabdzinica Zeljo.jpg|バシュチャルシヤにあるレストラン
File:Cevapcici_in_somun.jpg|サラエヴォの名物料理の一つであるチェヴァプチチ
</gallery>
 
[[バシュチャルシヤ]]は、サラエヴォの[[スタリ・グラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|旧市街]]のメイン・ストリートで、[[16世紀]]に[[アラブ]]のスークをモデルに建造された商業地区であった<ref name="city official tourist info" />。バシュチャルシヤでは金属細工や陶磁器、宝石などが売買されていた。バシュチャルシヤには、[[1551年]]にルステン・パシャ(Rustem pasha)によって建てられたドーム状の屋根がついた[[ブルサ・バザール]]([[:bs:Brusa bezistan|Brusa bezistan]])もある。ここでは、トルコの[[ブルサ]]から持ち込まれた絹製品が売られていた<ref name="city official tourist info" />。また、[[1891年]]に建てられ、サラエヴォの代表的なシンボルとなっている[[セビリ]]([[:en:Sebilj|Sebilj]])は独特の形状をした水汲み場で、バシュチャルシヤの中央に位置している。その名前は、アラビア語で「道」を意味する「Sebil」に由来している<ref name="city official tourist info" />。
 
=== ラテン橋 ===
[[ファイル:Sarajevo princip bruecke.jpg|right|thumb|200px|ラテン橋。[[サラエヴォ事件|サラエヴォ暗殺事件]]の現場。]]
[[ラテン橋]]は、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者[[フランツ・フェルディナント大公]]夫妻が、[[ガヴリロ・プリンツィプ]]に殺害された(そのため一時プリンツィプ橋と呼ばれた)、[[サラエヴォ事件]]の現場となった橋である。かつて木造だった橋は水害によって破壊され、[[1798年]]に再建された<ref name="city official tourist info" />。[[1914年]]、この橋の北で、大公夫妻が暗殺され、[[第一次世界大戦]]のきっかけとなった。橋はユーゴスラビアの愛国主義を記念し、プリンツィプ橋と改称されたが、ユーゴスラビア崩壊後にその呼称はかつてのラテン橋に戻された。
 
=== セルビア正教会の大聖堂 ===
[[ファイル:Saborna crkva u Sarajevu noću.jpg|right|thumb|200px|[[セルビア正教会]]の[[生神女誕生大聖堂 (サラエヴォ)|生神女誕生大聖堂]]]]
サラエヴォの[[セルビア正教会]]の[[大聖堂]]は、正式名称を「[[生神女誕生大聖堂 (サラエヴォ)|生神女誕生大聖堂]]」と言い、[[生神女]]([[聖母マリア]])の誕生を記念する大聖堂である。サラエヴォの[[正教徒]]のために[[1863年]]から[[1868年]]にかけて建造された<ref name="city official tourist info" />。聖堂は3つの[[バシリカ]]と、[[十字架]]を備えた5つの[[ドーム]]を有している。
 
=== カトリック教会の大聖堂 ===
サラエヴォの[[カトリック教会]]の大聖堂は、正式名称を「[[イエスの聖心大聖堂]]」といい、ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリックの大聖堂であり、[[イエス・キリスト]]の[[聖心]]を記念するものである。[[1884年]]から[[1889年]]にかけて建造された、[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ゴシック風]]の建築である。その入り口の上の窓のデザインは、[[サラエヴォ県]]の県旗や県象に描かれ、また[[ロマネスク]]風の2本の塔はサラエヴォの市旗や市章に描かれている。
 
=== イナト・クチャ ===
[[オーストリア=ハンガリー帝国]]がサラエヴォを含む[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]を支配していた時代の[[1914年]]、帝国はサラエヴォの旧市街に市役所と図書館のための土地を求めた<ref name="honey">Barnett, Tracy. (June 25, 2006) [[:en:San Antonio Express-News|San Antonio Express-News]] ''[http://www.besttravelwriting.com/btw-blog/great-stories/second-annual-solas-awards-winners/destination-gold-winner-honey-and-blood/ Honey and blood.]'' Section: Travel; Page 1L.</ref>。その予定地には2つの[[ハマム]]とともに1つの家があり、その所有者に売却を求めたものの、所有者はそれを拒み続けた<ref name="honey"/><ref name="city official tourist info" />。帝国当局が所有者を脅迫するに至り、ようやくその所有者はその土地を立ち退き、当局への遺恨の意思を示すため、家を解体して一片一片移動させ、[[ミリャツカ川]]の対岸に家を再建した<ref name="honey"/>。この家は、「遺恨の家」を意味する「[[イナト・クチャ]]」([[:bs:Inat kuća|Inat kuća]])の名でレストランとして営業されている<ref name="honey"/>。
 
=== アリ=パシャ・モスク ===
[[アリ=パシャ・モスク]]は、ハディム・アリ=パシャ(Hadim Ali-pasha)の遺言に基づき、アリの遺産によって[[1560年]]から[[1561年]]にかけて建造されたモスクである<ref name="city official tourist info" />。アリは自らの遺産を使って、自分の墓の隣にモスクを建てることを望んでいた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では大きく損害を受けたものの、終戦後は段階的に修復作業が進められている。
 
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
ファイル:JesusesHearthCathedral.jpg|カトリック教会の[[イエスの聖心大聖堂]]
ファイル:Inat_ku%C4%87a,_Sarajevo.JPG|[[バシュチャルシヤ]]の近くにあるイナトクチャ
ファイル:Ali_Pasha%27s_Mosque,_Sarajevo.jpg|[[ツェンタル_(ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ツェンタル]]にある[[アリ・パシャ・モスク]]
</gallery>
 
== サラエヴォの民 ==
著名な個人については「[[#サラエヴォ出身の人物|サラエヴォ出身の人物]]」節を参照のこと。
[[ファイル:Girl of Sarajevo Bosnia Austro-Hungary.jpg|thumb|220px|[[ボスニア]]の[[民族衣装]]を身に着けた、19世紀末のサラエヴォの若い女性/袋のように膨らんだズボン "[[:en:dimije|dimije]]" を穿いている。[[1890年]]頃と[[1900年]]頃の間にスタジオ撮影された観光カタログ用写真。モノクロ写真の[[ネガフィルム]]から版を起こして多色刷で彩色した{{仮リンク|フォトクローム|en|Photochrom}}の印刷物。]]
=== 人口動態 ===
ボスニア・ヘルツェゴビナにおける公式な[[国勢調査]]は[[1991年]]以降、2008年にいたるまで行われていない。1991年の国勢調査では、サラエヴォ周辺の10の自治体の人口は527,049人を数えた。サラエヴォの都市圏の人口は416,497であった<ref>Population density and urbanization. Retrieved on 5 August 2006.</ref>。サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナでは、戦争によって大規模に人口が流動し、その多くが2008年の時点でいまだに帰還できていない。
 
その後2008年にいたるまで、サラエヴォの人口は正確には把握されておらず、国際連合統計局([[:en:United Nations Statistics Division|United Nations Statistics Division]])や、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・連邦統計局、そして[[非営利団体]]による推計があるのみである。
 
2011年の時点で、サラエヴォの4自治体の人口は合計で311,161人と推計され、この4自治体を含む[[サラエヴォ県]]の人口は438,757人と推計されている<ref name=FZSsaopcenja/> 1,276.9平方キロメートルの面積を持つ、サラエヴォの人口密度は2,202.9人/平方キロメートルであるとみられる。サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が高いのは[[ノヴォ・サラエヴォ]]であり、その人口密度は7524人/平方キロメートルである。一方、サラエヴォの4自治体のなかで最も人口密度が低いのは[[スタリ・グラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|スタリ・グラード]]であり、2742人/平方キロメートルである<ref>Sarajevo Canton. [http://www.ks.gov.ba/eng/index.htm Population Density by Municipalities of Sarajevo Canton.] About Canton. Retrieved on 5 August 2006.</ref>
 
紛争によって大規模に街の民族的・宗教的な特徴は塗り替えられた。サラエヴォは何世紀にもわたって多文化都市であり<ref>Bureau of Democracy, Human Rights, and Labor, US Department of State. [http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2005/51544.htm Bosnia and Herzegovina] International Religious Freedom Report 2005. Retrieved on 5 August 2006.</ref>、「ヨーロッパの[[エルサレム]]」と呼ばれることもあった<ref>Stilinovic, Josip (3 January 2002). [http://www.cwnews.com/news/viewstory.cfm?recnum=21006 In Europe's Jerusalem] Catholic World News. Retrieved on 5 August 2006.</ref>。紛争直前の[[1991年]]の時点で、[[ボシュニャク人]]はサラエヴォの人口の49%を占め、次いで、主に[[正教会]]に属する[[セルビア人]]が34 %、主に[[カトリック教会]]に属する[[クロアチア人]]が7%であった。
 
== 通信とメディア ==
[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の首都として、サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの多くのニュース・メディアが拠点としている。通信と放送の設備のほとんどは紛争によって破壊されたものの、終戦後にボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表局による支援のもとで復興された<ref>European Journalism Centre (November 2002). [http://www.ejc.net/media_landscape/article/bosnia_herzegovina/ The Bosnia-Herzegovina media landscape.] European Media Landscape. Retrieved on 5 August 2006.</ref>。たとえば、サラエヴォでは、インターネットは1995年に初めて使用可能となった<ref>Vockic-Avdagic, Jelenka. [http://soemz.euv-frankfurt-o.de/media-see/newmedia/main/articles/j_avdagic.htm The Internet and the Public in Bosnia-Herzegovina] in Spassov, O. and Todorov Ch. (eds.) (2003), New Media in Southeast Europe. SOEMZ, European University "Viadrina" (Frankfurt - Oder) and Sofia University "St. Kliment Ohridski".</ref>。
 
オスロボジェニェ([[:en:Oslobođenje|Oslobođenje]]、「解放」)は[[1943年]]に創設され、紛争後のサラエヴォで運営期間が最も長く、紛争を生き延びることのできた唯一の新聞であった。しかし、発行部数では[[1995年]]創刊のドネヴニ・アヴァズ([[:en:Dnevni Avaz|Dnevni Avaz]]、日刊「声」)や、ユタルニェ・ノヴィネ(Jutarnje Novine、「朝のニュース」)に追い越された<ref>Udovicic, Radenko (03-05-2002). [http://www.mediaonline.ba/en/?ID=211 What is Happening with the Oldest Bosnian-Herzegovinian Daily: Oslobođenje to be sold for 4.7 Million Marks] Mediaonline.ba: Southeast European Media Journal.</ref>。その他に地元で定期的に発行される新聞としては、クロアチア語の新聞フルヴァツカ・リイェチ([[:en:Hrvatska riječ|Hrvatska riječ]])や、ボスニア語のスタルト([[:en:Start (newspaper)|Start]])、週刊誌のスロボダナ・ボスナ(Slobodna Bosna、「ボスニア解放」)、BHダニ(BH Dani「BHの日々」)などがある。ノヴィ・プラメン([[:en:Novi Plamen|Novi Plamen]])は月刊誌であり、左翼思想を代表している。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナ公共放送サービスは、サラエヴォの公共放送局であり、ボスニア・ヘルツェゴビナの3つある公共放送のうちのひとつである。その他にサラエヴォに本拠地を置く放送局は、NRTV “Studio 99”、[[:en:NTV Hayat|NTV Hayat]]、Open Broadcast Network、TV Kantona Sarajevo、Televizija Alfaがある。このほかに多くの小規模な独立ラジオ局があり、Radio M、Radio Stari Grad、Studentski eFM Radio<ref>[http://www.efm.ba Studentski eFM Radio]</ref>、Radio 202、RSGなどがある。[[:en:Radio Free Europe<!-- リダイレクト先の「[[:en:Radio Free Europe/Radio Liberty]]」は、[[:ja:ラジオ・フリー・ヨーロッパ]] とリンク -->|Radio Free Europe]]や、その他の欧米各国の放送も展開されている。
 
== 交通輸送 ==
[[ファイル:Sarajevo tram.jpg|thumb|サラエヴォは[[ヨーロッパ]]で初の終日(朝から夜まで)運行している[[路面電車]]が導入された街である。路面電車はそのあとも時代に合わせて改良が進められている。]]
 
サラエヴォは山に囲まれた渓谷に位置しており、街は小さくまとまっている。狭い路地と駐車場の不足によって、街への自動車の進入は制限され、歩行者や自転車にとっては恵まれた環境になっている。街の2つの主要な通りは[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]の名を冠するティトー通りと、東西を結ぶズマイ・オド・ボスネ(ボスニアのドラゴン、[[:en:Husein Gradaščević|Husein Gradaščević]])・ハイウェーがある。欧州高速道路のCorridor 5Cは、サラエヴォの街を北は[[ブダペスト]]、南は[[プロチェ]]([[:en:Ploče|Ploče]])へと結んでいる<ref>Bosmal. [http://www.bosmal.com/en/?lg=en&nav_ID=14 Corridor 5C.] Retrieved on 5 August 2006.</ref>。
 
[[サラエヴォ市電|路面電車]]は[[1885年]]から運行しており、サラエヴォで最古の[[公共交通機関]]である<ref>About trams on [http://www.virtualnosarajevo.com.ba/trams.htm Virtual City of Sarajevo]</ref>。サラエヴォには7本の路面電車の路線と、5本の[[トロリーバス]]の路線があり、また多くのバス路線がある。サラエヴォで主要な鉄道の駅は、街の中北部に位置している。この鉄道駅からは、西にむけて多くの場所に路線が枝分かれしており、街の工業地帯などとも結ばれている。サラエヴォは21世紀にはいり、産業の刷新が進んでおり、多くの高速道路や通りの改修、路面電車の現代化、新しい橋や道路の建設が進められている。
 
[[サラエヴォ国際空港]]、あるいはブトミル空港(Butmir)はサラエヴォの街から南西に数キロメートルのところに位置している。紛争中、空港は[[国際連合]]と人道的支援のために使用された。[[1996年]]に[[デイトン合意]]が結ばれてからは、空港は民間による使用を受け入れている。[[2006年]]、534,000人の旅客がサラエヴォ空港を利用した。その10年前の1996年、旅客の利用はわずかに25,000人であった<ref>Krkic, Zahid The airport is also seeing new airlines begin operation; such as British Airways, which operates direct flights to London as of 2007 , and many other European airlines will begin operation in Butmir. soon/[http://www.fortunecity.com/oasis/tropicana/533/statistic.htm Statistics data for Sarajevo Airport.] Retrieved on 5 August 2006.</ref>。
 
== 文化 ==
[[ファイル:Sarajevo museum.jpg|thumb|ボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館]]
サラエヴォは多くの異なる宗教が共存してきており、街の文化を多様なものとしている。ボスニアの[[ムスリム]]、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ人は互いに同じ街に住みながら、それぞれ独自のアイデンティティを維持し続けてきた。しかし、紛争後はムスリムの人口比率が高まった。紛争後の年月が経過するにつれ、すこしずつ街を去った人々の帰還も進んでいる。また、[[東アジア]]からの移民も増加している。
 
サラエヴォには多くの博物館がある。その中には、サラエヴォ博物館、アルス・アエヴィ現代美術館([[:en:Ars Aevi|Ars Aevi]])、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ博物館]]([[:en:National Museum of Bosnia and Herzegovina|en]]、1988年に開設され、[[サラエヴォ・ハッガーダー]]([[:en:Sarajevo Haggadah<!-- [[:ja:サライェヴォ・ハッガーダー]] とリンク -->|Sarajevo Haggadah]])を所有)、ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館、ボスニア・ヘルツェゴビナ文学・芸術博物館などがある。
 
サラエヴォには、1919年に設立されたボスニア・ヘルツェゴビナ国立劇場もある。また、サラエヴォ青年劇場もある。その他の文化的施設としては、サラエヴォ文化センター、サラエヴォ市図書館、ボスニア・ヘルツェゴビナ・アート・ギャラリーなどがある。ボシュニャク協会([[:en:Bosniak Institute|Bosniak Institute]])は、ボシュニャク人の歴史に焦点をあてた私有の図書館と美術コレクションである。
 
紛争に関連する破壊によって<ref>Perlez, Jane (12 August 1996). [http://www.nytimes.com/specials/bosnia/context/0812yugo-bosnia-sara.html Ruins of Sarajevo Library Is Symbol of a Shattered Culture] New York Times.</ref>、そして復興開発のなかで、複数の施設や文化的・宗教的象徴が失われた。その中には、ガジ・フスレヴ=ベグ図書館や、国立図書館、サラエヴォ・オリエンタル協会、1984年の冬季オリンピックに関する博物館などがあった。その後、各層の政府によって文化財保護の法律と機関が設けられた。サラエヴォで文化的遺産の保護を受け持つ機関となっているのは、ボスニア・ヘルツェゴビナ文化的・歴史的・自然遺産保護協会、およびボスニア・ヘルツェゴビナ国立記念物保存委員会である。
 
歴史的に、サラエヴォは[[オスマン帝国]]時代、複数のボスニアの詩人や思想家の故地となった。[[ノーベル賞]]受賞者の[[ウラジミール・プレローグ]]はこの街の出身である。また、アカデミー賞受賞の[[ダニス・タノヴィッチ]]もサラエヴォ出身である。ノーベル賞受賞の[[イヴォ・アンドリッチ]]はその人生の多くをサラエヴォで過ごした。
 
[[サラエヴォ映画祭]]は1995年に始まり、バルカンで随一の映画祭となった<ref name="sff.ba">{{cite web|url=http://www.sff.ba/content.php/en/festival_info_2009|title=The Festival|publisher=[[サラエヴォ映画祭|Sarajevo Film Festival]]|accessdate=2009-10-18}}</ref><ref name="sarajevo-torism">{{cite web|url=http://www.sarajevo-tourism.com/eng/festivals.wbsp|title=Tourism Association of Sarajevo Canton - Going out - Festivals|accessdate=2009-10-18|publisher=[[サラエヴォ県]]観光協会}}</ref>。有名なサラエヴォ・ジャズ・フェスティバル([[:en:Sarajevo Jazz Festival|Sarajevo Jazz Festival]])や、何週間にもわたって続く地元の文化・音楽・舞踊のショーケース「バシュャルシヤの夜」([[:en:Baščaršija Nights|Baščaršija Nights]])もある<ref>{{cite web|url=http://www.bascarsijskenoci.ba/o_nama_eng.htm|title=Baščaršijske noći|accessdate=2009-10-18}}</ref><ref name="sff.ba" />。
 
[[ポップ・ロック・サラエヴォ派]](Sarajevska škola pop-roka、[[:en:Sarajevo school of pop rock|en]])は[[1961年]]から[[1991年]]まで発展を続けた音楽である。この種類の音楽は、[[インデクシ]]([[:en:Indexi|Indexi]])、[[ビイェロ・ドゥグメ]]([[:en:Bijelo dugme|Bijelo dugme]])などのバンドや、シンガー・ソングライターの[[ケマル・モンテノ]]([[:en:Kemal Monteno|Kemal Monteno]])らによって始められたものである。この音楽は誕生後[[1980年代]]も続き、[[プラヴィ・オルケスタル]]([[:en:Plavi orkestar|Plavi orkestar]])、[[ザブラニェノ・プシェニェ]]([[:en:Zabranjeno pušenje|Zabranjeno pušenje]])、[[ツルヴェナ・ヤブカ]]([[:en:Crvena jabuka|Crvena jabuka]])などが活躍したものの、1992年の紛争勃発によって潰えた。紛争が終わって初めてサラエヴォでライブをしたバンドは、[[アイルランド]]の[[U2]]であった。
 
== 催事 ==
サラエヴォで行われる主な催し物としては、[[サラエヴォ映画祭]]と[[サラエヴォ・ジャズ・フェスティバル]]([[:en:Sarajevo Jazz Festival|Sarajevo Jazz Festival]])が挙げられる。
 
サラエヴォ映画祭はサラエヴォ中心部の国立劇場で開かれ、世界的に有名な俳優や映画監督、音楽家などがホストを務める<ref name="sff.ba"/>。このホストをした人物には、[[スティーヴ・ブシェミ]]、[[ボノ]]、[[クーリオ]]、[[ジョン・マルコヴィッチ]]、[[ニック・ノルティ]]、[[ダニエル・クレイグ]]、[[ウィレム・デフォー]]、[[アンソニー・ミンゲラ]]、[[カトリン・カートリッジ]]、[[アレクサンダー・ペイン]]、[[ソフィー・オコネドー]]、[[スティーヴン・フリアーズ]]などが挙げられる。1995年にサラエヴォ映画祭が始まって以来、フェスティバルは多くの人々や有名人らをひきつけ、フェスティバルは国際的な水準へと昇華していった。サラエヴォ映画祭の第1回は紛争の続くサラエヴォで1995年に開かれた。サラエヴォ映画祭では2000年代に入り、[[バルカン半島]]で最大で最も著名な映画祭となった<ref>http://www.filmski.net/festivali/25/sarajevo_film_festival</ref>。第13回サラエヴォ映画祭では、[[ジュリエット・ビノシュ]]、[[ジェレミー・アイアンズ]]、[[スティーヴ・ブシェミ]]、[[マイケル・ムーア]]が審査員を務めた。
 
サラエヴォ・ジャズ・フェスティバルは、ホストとして[[リチャード・ボナ]]、[[ジョン・バトラー・トリオ]]、[[クリスティーナ・ブランコ]]([[:en:Cristina Branco|Cristina Branco]])、[[:en:Dhafer Youssef|Dhafer Youssef]]らが参加している。フェスティバルはボスニア文化センター(「主ステージ」)、サラエヴォ青年舞台劇場(「奇妙な果実ステージ」)、ヴォイスカ・フェデラツィイェ会館(Dom Vojske Federacije、「ソロ・ステージ」)、CDS(「グルーヴ・ステージ」)にて開かれている。
 
== スポーツ ==
[[File:Asim Ferhatović Hase Stadium.jpg|thumb|アシム・フェルハトヴィッチ・ハセ競技場]]
サラエヴォは[[1984年サラエボオリンピック|1984年冬季オリンピック]]の会場となった。ユーゴスラビアはこの時1つのメダルを獲得した。このメダルは銀メダルであり、男子[[大回転]]で[[ユレ・フランコ]]([[:en:Jure Franko|Jure Franko]])に対して与えられたものであった<ref>IOC (2006). [http://www.olympic.org/uk/athletes/profiles/bio_uk.asp?PAR_I_ID=69486 Jure Franko] Althete: Profiles. Retrieved on 5 August 2006.</ref>。多くのオリンピック設備は紛争を耐え抜き、あるいは再建された。それらの中には[[ゼトラ・オリンピック・ホール]]([[:en:Olympic Hall Zetra|Olympic Hall Zetra]])や[[アシム・フェルハトヴィッチ・ハセ競技場]]([[:en:Asim Ferhatović Hase Stadium|Asim Ferhatović Hase Stadium]])も含まれる。後にサラエヴォでは南東ヨーロッパ友好大会を共催し、また[[2009年]]の[[スペシャルオリンピックス]]冬季大会会場に選ばれたものの<ref>Special Olympics, (2005 - Quarter 2). {{PDFlink|[http://www.specialolympics.org/NR/rdonlyres/eck3ufhttf2x4pzu3givbtxgymdn333fsyldg5o5cypl6c6mnfglmsb2uxguzhhntjo2p4eypzxd2sm3khvu6qdw62d/SPIRIT_Q2_2005_42-43.pdf 2009 Games in Sarajevo]|277&nbsp;KB}} Spirit. Retrieved on 5 August 2006.</ref>、この計画は中止となった<ref>Hem, Brad (29 July 2006). [http://www.idahostatesman.com/apps/pbcs.dll/article?AID=2006601210350 Idaho may be in the running to host the 2009 Special Olympics] IdahoStatesman.com.</ref><ref>Special Olympics (May 2006). [http://www.specialolympics.org/Special+Olympics+Public+Website/English/Press_Room/Global_news/Boise+site+of+2009+Games.htm Boise, Idaho (USA) Awarded 2009 Special Olympics World Winter Games] Global News.</ref>。
 
[[サッカー]]はサラエヴォで盛んに行われている。サラエヴォにあるサッカークラブ、「[[FKサライェヴォ|FKサラエヴォ]]」と「[[FKジェリェズニチャル・サライェヴォ|FKジェリズニチャル・サラエヴォ]]」は、共に欧州や世界規模の大会に参加しているクラブである。この他に、「[[FKオリンピク・サラエヴォ]]」、「[[NK SAŠKナプレダク]]」([[:en:NK SAŠK Napredak|NK SAŠK Napredak]])もある。サッカー以外ではバスケットボールも盛んであり、「[[KKボスナ]]」([[:en:KK Bosna|KK Bosna Sarajevo]])は[[1979年]]の[[ユーロリーグ]]で優勝を果たした。チェス・クラブ「ボスナ・サラエヴォ」は1980年代からチャンピオン入りするチームとなっている。サラエヴォでは、[[テニス]]や[[キックボクシング]]などの各種の国際的なスポーツの大会や催し物が開かれてきた。[[ロック・クライミング]]も盛んであり、都心部から遠くないところにロック・クライミング用の岩壁があり、ダリヴァ・サラエヴォ国際スピードウェイ(Dariva Sarajevo International Speedway)がある。
 
{| class="wikitable"
|-
! scope="col" | クラブ
! scope="col" | リーグ
! scope="col" | 本拠地
! scope="col" | 設立
|-
| [[FKジェリェズニチャル・サライェヴォ|FKジェリェズニチャル・サラエヴォ]]
| [[ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ (サッカー)|ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ]]<br />[[ボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー協会]]
| [[:en:Grbavica Stadium|Grbavica Stadium]]
| 1921年
|-
| [[FKサライェヴォ|FKサラエヴォ]]
| [[ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ (サッカー)|ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ]]<br />[[ボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー協会]]
| [[:en:Asim Ferhatović Hase Stadium<!-- [[:ja:アシム・フェルハトヴィッチ・ハセ競技場]] とリンク -->|Asim Ferhatović Hase Stadium]]
| 1946年
|-
| [[RKボスナ・サラエヴォ]]
| [[ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ (ハンドボール)|ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ]]
| [[:en:Ramiz Salčin Hall|Ramiz Salčin Hall]]
| 1948年
|-
| [[KKボスナ]]
| [[ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ (バスケットボール)|ボスニア・ヘルツェゴビナ・プレミイェル・リーガ]]<br />[[アドリアティック・バスケットボール・アソシエーション]]
| [[:en:Mirza Delibašić Arena|Mirza Delibašić Arena]]
| 1951年
|}
 
== 教育 ==
[[ファイル:Sarajevo7.jpg|thumb|ミリャツカ川の岸にあるサラエヴォ芸術アカデミー]]
サラエヴォでは高等教育は長い歴史を持っている。知られている最初の高等教育は、[[1531年]]に[[ガジ・フスレヴ=ベグ]]によって設立された[[スーフィズム]]哲学の学校である。その後数多くの宗教的な学校が設立されてきた。[[1887年]]、オーストリア=ハンガリー帝国の統治下において、[[シャーリア]]法学校は5年間の教育プログラムとなった<ref>[http://www.sarajevo.ba/en/stream.php?kat=145 University of Sarajevo] on Sarajevo official web site</ref>。[[1940年代]]、[[サラエヴォ大学]]は町で最初の本格的な高等教育の機関として設立された。[[1950年代]]にはいると、学士課程以上の教育も受けられるようになった<ref>History of [http://unsa.ba/eng/ouni.php University of Sarajevo]</ref>。紛争によって大きく傷を受けたものの、サラエヴォ大学はその後復興され、40以上の大学と提携を結んでいる。
 
[[2005年]]の時点で、サラエヴォには46の初等学校(1年-9年)、33の高等学校(10年-13年)があり、これらのうち3つは[[特別支援学校]]である<ref>Sarajevo Canton, 2000 {{PDFlink|[http://www.zavodzpr-sa.ba/Publikacije/LKeng.pdf Primary Education & Secondary Education]|1.28&nbsp;MB}}. Sarajevo 2000, p107–08.</ref>。また、ドルガ・ギムナジヤ([[:en:Druga Gimnazija|Druga Gimnazija]])は[[国際バカロレア資格]]課程の学校である。
 
サラエヴォにはまた、複数の国際学校もあり、外国系の住民のために供されている。QSIサラエヴォ国際学校や、サラエヴォ・フランス語国際学校などがある。
 
== サラエヴォが登場する作品 ==
* 短編小説『サラエボの鐘―1920年の手紙』([[イヴォ・アンドリッチ]]) [[1946年]]
* 映画『[[パパは、出張中!]]』 [[1985年]]
* 短篇映画『[[たたえられよ、サラエヴォ]]』([[ジャン=リュック・ゴダール]]監督) [[1993年]]
* 映画『[[ユリシーズの瞳]]』 [[1996年]]
* ドキュメンタリー映画『[[エグザイル・イン・サラエヴォ]]』 [[1997年]]
* 映画『[[ウェルカム・トゥ・サラエボ]]』 [[1997年]]
* 映画『[[パーフェクト・サークル]]』 [[1997年]]
* 映画『[[アワーミュージック]]』(ジャン=リュック・ゴダール監督) [[2004年]]
* 映画『[[サラエボの花]]』([[ヤスミラ・ジュバニッチ]])[[2005年]]
* 映画『[[ハンティング・パーティ]]』([[リチャード・シェパード]]監督)[[2007年]]
* 長編SF小説『[[虐殺器官]]』([[伊藤計劃]])2007年
* 映画『[[サラエボ、希望の街角]]』(ヤスミラ・ジュバニッチ脚本/監督)[[2010年]]
* [[リアルタイムストラテジー]]・コンピュータ・ゲームのシリーズ[[コマンド&コンカー]]の作品「[[:en:Brotherhood of Nod|Brotherhood of Nod]]」では、作戦行動の拠点をサラエヴォにおいている。作中で、Kaneの聖堂であるPrime聖堂は町の郊外にある。
[[ジェラルディン・ブルックス]]の小説「古書の来歴」もサラエヴォが舞台の一部となっている。
*ロシアのAkella社のPCゲーム『[[スコーピオン]]』は近未来のサラエヴォを舞台としている。
* 映画『[[ネイビーシールズ ナチスの金塊を奪還せよ!]]』 [[2017年]]
 
== 国際関係 ==
=== 姉妹都市 ===
サラエヴォは以下の各都市と姉妹都市提携を結んでいる。<ref name="Sarajevo">{{cite web|author=daenet d.o.o. |url=http://www.sarajevo.ba/en/stream.php?kat=160 |title=Sarajevo Official Web Site : Sister cities |publisher=Sarajevo.ba |accessdate=6 May 2009}}</ref>
{|style="width:100%"
|-
|style="width:33.3%;"|
*{{flagicon|Spain}} [[バルセロナ]] <small>''(since 2000)''</small><ref name="Sarajevo"/>
*{{flagicon|Croatia}} [[ザグレブ]] <small>''(since 2001)''</small><ref name="Zagreb Twinning">{{cite web|url=http://www1.zagreb.hr/mms/en/index.html|title=Intercity and International Cooperation of the City of Zagreb|publisher=2006–2009 City of Zagreb|accessdate=23 June 2009}}</ref><ref name="Sarajevo"/>
*{{flagicon|Slovenia}} [[リュブリャナ]] <small>''(since 2002)''</small><ref name="Sarajevo"/>
|style="width:33.3%;"|
*{{flagicon|USA}} [[ソルトレイクシティ]] <small>''(since 2002)''</small><ref name="Sarajevo"/>
*{{flagicon|Egypt}} [[カイロ]] <small>''(since 2006)''</small><ref name="Sarajevo"/>
*{{flagicon|Croatia}} [[ドゥブロヴニク]] <small>''(since 2006)''</small><ref name="Sarajevo"/>
|style="width:33.3%;"|
*{{flagicon|Norway}} [[リレハンメル]] <small>''(since 2006)''</small>
*{{flagicon|Macedonia}} [[スコピエ]] <small>''(since 2006)''</small><ref name="Sarajevo"/><ref name="Skopje">{{cite web|url=http://www.skopje.gov.mk/EN/DesktopDefault.aspx?tabindex=0&tabid=69|title=Official portal of City of Skopje&nbsp;– Skopje Sister Cities|publisher=2006–2009 [http://www.skopje.gov.mk/DesktopDefault.aspx?tabindex=0&tabid=1 City of Skopje]|accessdate=14 July 2009}}</ref>
*{{flagicon|Turkey}} [[コンヤ]] <small>''(since 2007)''</small><ref name="Sarajevo"/>
|}
 
=== 友好都市 ===
サラエヴォの友好都市には以下の都市も含まれる。<ref name="Twin 1">{{cite web|url=http://www.sarajevo.ba/en/stream.php?kat=147|title=Fraternity cities on Sarajevo Official Web Site|publisher=City of Sarajevo 2001–2008|accessdate=9 November 2008}}</ref>
{|style="width:100%"
|-
|style="width:33.3%;"|
*{{flagicon|Turkey}} [[ブルサ]] <small>''(since 1979)''</small>
*{{flagicon|Turkey}} {{仮リンク|アクヒサール|en|Akhisar|}}
*{{flagicon|Turkey}} [[イスタンブール]]<small> ''(since 1997)''<ref>{{cite web|url=http://www.greatistanbul.com/sister_cities.htm|title=Sister Cities of Istanbul|accessdate=8 September 2007}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=94185|publisher=Radikal|language=Turkish|date=3 November 2003|quote=49 sister cities in 2003|title=İstanbul'a 49 kardeş|last=Erdem|first=Selim Efe}}</ref></small>
*{{flagicon|Turkey}} [[アンカラ]] <small>''(since 2007)''</small>
*{{flagicon|China}} [[天津市]] <small>''(since 1981)''</small>
*{{flagicon|China}} [[上海市]]
*{{flagicon|Italy}} [[ヴェネツィア]] <small>''(since 1994)''</small>
*{{flagicon|Italy}} [[コッレーニョ]]<small>''(since 1994)''</small>
*{{flagicon|Italy}} [[フェラーラ]]<small>''(since 1978)''</small>
*{{flagicon|Italy}} [[ナポリ]]<small>''(since 1976)''</small>
|style="width:33.3%;"|
*{{flagicon|Italy}} [[プラート]]<small>''(since 1995)''</small>
*{{flagicon|Hungary}} [[ブダペスト]]<small>''(since 1995)''<ref>{{cite web|title=Sister City&nbsp;– Budapest|publisher=Official website of New York City|url=http://www.nyc.gov/html/unccp/scp/html/sc/budapest_main.shtml|accessdate=14 May 2008}}</ref><ref>{{cite web|title=Sister cities of Budapest|language=Hungarian|publisher=Official Website of Budapest|url=http://www.budapest.hu/engine.aspx?page=20030224-cikk-testvervarosok|accessdate=31 January 2008}}</ref></small>
*{{flagicon|Croatia}} [[カルロヴァツ]]
*{{flagicon|UK}} [[コヴェントリー]] <small>''(since 1957)''</small>
*{{flagicon|Germany}} [[ヴォルフスブルク]]<small>''(since 1985)''</small>
*{{flagicon|Germany}} [[マクデブルク]] <small>''(since 1972)''</small>
*{{flagicon|Germany}} [[フリードリヒスハーフェン]] <small>''(since 1972)''</small>
*{{flagicon|Spain}} [[マドリード]] <small>''(since 2007)''<ref name="Madrid">[http://www.madrid.es/UnidadWeb/Contenidos/EspecialInformativo/RelacInternac/RRII/HermanamientosyAcuerdos/Files/Sarajevo.pdf Official agreement paper between Sarajevo and Madrid (Spanish and Bosnian languages)]</ref></small>
*{{flagicon|Austria}} [[インスブルック]] <small>''(since 1980)''</small>
*{{flagicon|Netherlands}} [[アムステルダム]]
|style="width:33.3%;"|
*{{flagicon|France}} {{仮リンク|セッレ=シェヴァリエ|en|Serre Chevalier|}} <small>''(since 1995)''</small>
*{{flagicon|Sweden}} [[ストックホルム]] <small>''(since 1997)''</small>
*{{flagicon|Czech Republic}} [[ターボル (チェコ)|ターボル]]
*{{flagicon|Albania}} [[ティラナ]] <small>''(since 1996)''</small>
*{{flagicon|USA}} [[デイトン (オハイオ州)|デイトン]] <small>''(since 1999)''</small>
*{{flagicon|Azerbaijan}} [[バクー]] <small>''(since 1972)''</small>
*{{flagicon|Kuwait}} [[クウェートシティ]] <small>''(since 1998)''</small>
*{{flagicon|Algeria}} [[アルジェ]]
*{{flagicon|Algeria}} [[トレムセン]] <small>''(since 1964)''</small>
*{{flagicon|Libya}} [[トリポリ]] <small>''(since 1976)''</small>
|}
 
== サラエヴォ出身の人物 ==
{{main|Category:サラエヴォ出身の人物}}
*[[ウラジミール・プレローグ]] - 化学者
*[[エミール・クストリッツァ]] - 映画監督
*[[ゴラン・ブレゴヴィッチ]] - 作曲家
*[[アリヤ・イゼトベゴヴィッチ]] - 政治家
*[[ブランコ・ツルヴェンコフスキ]] - [[マケドニア共和国]]大統領。
*[[ボリス・タディッチ]] - [[セルビア]]大統領。
*[[イビチャ・オシム|イヴィツァ・オシム]] - サッカー選手、元[[サッカー日本代表|日本代表]]監督。
*[[ヤドランカ]] - サラエボオリンピックで公式テーマ曲を歌った歌手。
*[[ダミール・マルコータ]] - プロ[[バスケットボール選手]]、[[バスケットボールクロアチア代表|クロアチア代表]]、元[[NBA]]
*[[ゴラン・スータン]] - プロ[[バスケットボール選手]]、[[バスケットボールボスニア・ヘルツェゴビナ代表|ボスニア・ヘルツェゴビナ代表]]、[[NBA]]選手。
 
== 関連項目 ==
*[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]
*[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]
*[[サラエヴォ県]]
*[[イストチノ・サラエヴォ]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
* Official results from the book: Ethnic composition of Bosnia-Herzegovina population, by municipalities and settlements, 1991. census, Zavod za statistiku Bosne i Hercegovine - Bilten no.234, Sarajevo 1991.
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 脚注関連文献 ==
* City of Sarajevo. [http://www.sarajevo.ba/en/stream.php?kat=147 Fraternity cities.]
* Maniscalco, Fabio (1997). Sarajevo. Itinerari artistici perduti (Sarajevo. Artistic Itineraries Lost). Naples : Guida
* Prstojević, Miroslav (1992). Zaboravljeno Sarajevo (Forgotten Sarajevo). Sarajevo: Ideja
* Valerijan, Žujo; Imamović, Mustafa; Ćurovac, Muhamed (1997). Sarajevo. Sarajevo: Svjetlost
* My Life in Fire (a non-fiction story of a child in a Sarajevo war)
 
==外部リンク==
* [http://www.sarajevo-airport.ba/ Sarajevo International Airport]{{bs icon}}/{{en icon}}
*
 
 
{{ボスニア・ヘルツェゴビナの基礎自治体}}
{{冬季オリンピック開催都市}}
{{ヨーロッパの首都}}
 
{{Good article}}
 
{{DEFAULTSORT:さらえうお}}
[[Category:ボスニア・ヘルツェゴビナの都市]]
[[Category:ヨーロッパの首都]]
[[Category:サラエヴォ|*]]
[[Category:世界歴史都市連盟]]
[[Category:ヨーロッパの谷]]
 
<!-- Wikipedia 翻訳支援ツール Ver0.72、[[:en:Sarajevo]](2008年10月23日 4:33:14(UTC))より -->